日本語教師の履歴書 vol.16 菊岡由夏さん


「教師同士のつながりを作る、働くための日本語を教える、『大事にしたいもの』を見つける」 菊岡由夏さん

今回は、青年海外協力隊としてブータンで日本語を教えた後、大学院に通いながら非常勤講師として働き、現在は国際交流基金日本語国際センターに勤められている菊岡由夏さんです。2021年2月5日にZOOMでお話をうかがいました。


《今回の「日本語教師」》 菊岡由夏(きくおか・ゆか)さん 国際交流基金日本語国際センター専任講師。1973年愛知県生まれ。大学在学中に地域の日本語教室に出会い、地域で暮らす外国人にボランティアで日本語を教えることからこの世界に入った。大学卒業後、日本語教師養成420時間講座を受講し修了、日本語教育能力検定試験に合格。その後、青年海外協力隊日本語教師隊員としてブータン王国に派遣。日本語ツアーガイド養成の一環としての日本語教育に携わる。帰国後は、日本語学校で非常勤講師をしながら大学院に進学。博士論文の執筆にあたり、日系ブラジル人が多く働く工場でフィールドワークを行う。その後、愛知淑徳大学留学生別科、明徳義塾高校国際日本語コース、早稲田大学日本語教育センターなどで日本語を教えた後、2013年より現職。


「海外に行きたいなという漠然としたあこがれを持つようになった」―青年海外協力隊に参加する

瀬尾ま どのようにして日本語教育に関わり始めたんですか。

菊岡 私が日本語教育の世界に入ったのは、愛知県出身であることが大きかったと思います。小学生の頃は、電車で外国人を見かけるとサインをもらいに行くような、外国人慣れしていない子どもだったんです。でも、90年代前半に私が暮らす地域に南米から働きに来る人が爆発的に増えて、町で普通に外国人を見かけるようになって。当時私は大学生だったんですけど、そんな周りの空気に影響されてか、海外に対する漠然としたあこがれを持つようになったんです。そのときに青年海外協力隊の電車の吊り広告を見て、「これだ!」って単純に感動して(笑)。それで、青年海外協力隊に参加する方法を調べていくうちに、日本語教師という仕事を知ったんです。その頃、たまたま友達のおじさんが地域の日本語教室でボランティアをしていて、「こういうのに興味があるなら一度見に来る?」と誘ってくれて。それがきっかけで地域の日本語教室に出入りするようになりました。当時は地域の日本語教室の存在なんてまったく知らなかったんですけど、そんな偶然のおかげで大学の3年の終わりか4年の初めの頃から、日本語教師のまねっこみたいなことを始めました。そこで知り合った南米の方たちには、ご家庭に出入りさせてもらったりして、とてもよくしてもらいました。こんなふうに地域に住む外国人の方たちと関わるようになったのが、本格的に日本語教師の仕事に就こうと思ったきっかけですね。

瀬尾ゆ 最初は地域のボランティアから始められたんですね。

菊岡 はい。それで大学を卒業して、青年海外協力隊で日本語教師として派遣されるためには、日本語教師養成講座や日本語教育能力試験を受けなきゃと思い、養成講座に通い始めました。

瀬尾ゆ それは大学を卒業されてからですか。

菊岡 はい、一応就職活動もしていたんですけど、当時はバブルがはじけて就職活動も厳しかったんで、早々に就職活動を切り上げて、卒業後は青年海外協力隊に行こうと考えていました。

瀬尾ま 海外で日本語を教えるということを最初から考えていたんですか。

菊岡 はい。養成講座に通い始めたときは、国内の日本語学校で働くことも考えたんですけれど、国内で働くには日本語教育経験が必要だったし、日本語教育経験を積もうにも採用条件には日本語教育経験が必要と書かれているし。どうにもならないなと思ったんです。それに、養成講座の先生から「日本語教師は、まず日本を忘れることから始めなさい」、「日本語教師になりたいなら日本を出なさい」と言われて。この言葉はインパクトがありましたね。それで、やっぱり青年海外協力隊だよね、と思いました。

瀬尾ま ご両親は日本語教師になることについてどう思われていたんですか。

菊岡 親は日本語教師という仕事を知らなかったので、養成講座に通っているときは何も言いませんでしたが、実際に協力隊に行くことになったときは大変でしたね。応募する前に親にパンフレットを見せたんです。そしたら、「ふーん、えらい人もいるもんだね」って反応(笑)。私が海外に行きたいと思っているなんて夢にも思っていなかったようです。でも、協力隊の二次試験の案内はがきが親に見つかったときには、「もう二度と帰ってくるな」って言われるぐらいの大喧嘩になりました。

瀬尾ゆ 二次試験を受けて、その後ご両親を説得されたんですか。

菊岡 説得したというよりは、流されたという感じでしょうか。合格が決まるまでの1か月は、親は口もきいてくれませんでしたね。でも、合格したらもう賛成するとか反対するとかじゃなくなりました。青年海外協力隊って出発前に2か月半の訓練があるんですが、私は合格発表後の一番早いタイミングの訓練だったので、バタバタっと行くことになって親も反対するどころではなかったんでしょうね。

瀬尾ま 訓練ではどんなことをされたんですか。

菊岡 駒ヶ根の訓練所で他の隊員と寝食を共にして、現地語を学んだり、海外赴任に必要なレクチャ―を受けたりしました。ほかにも、予防接種を打ったり、毎朝走って途上国に行っても負けない健康的な体を作ったり。訓練所のごはんがとてもおいしくてモリモリ食べていたら、ものの見事に3キロ太りました。あとで聞いた話だと、任地に行くと大抵痩せるので、3キロ太るようにカロリー計算されているそうで、計画通りになっちゃったなと思いましたね。

瀬尾ゆ 痩せちゃうんですね。

菊岡 私は痩せませんでしたけどね。それに、自分で鶏を絞めて食べられるようにと、鶏の首を絞める訓練もしました。派遣先では実際に鶏を絞めることはなかったんですけど、鶏をさばく経験は役立ちました。

瀬尾ま なかなか過酷な訓練ですね。訓練は楽しかったですか。

菊岡 人里から離れたところで隔離されたような状態ではありましたが、若い人たちが集まっていたので、わずかな休憩時間を利用して出かけたり、夜みんなで現地語の勉強をしたり、本当に楽しかったですよ。

瀬尾ゆ 青年海外協力隊では、どこに派遣されたんですか。

菊岡 ブータンです。試験を受けるときに、第一希望から第三希望まで書くんですけど、私は先に話した南米の方たちとの出会いが影響して、南米に行きたいと思っていたので、エクアドルと書いたんです。ブータンについては、日本語教師派遣の要請が出ていたことすら知らなくて。

瀬尾ゆ 最初に「あなた、ブータン」と言われたときはどうでしたか。

菊岡 思ったよりストンと落ちましたね。二次試験のときに、面接官から「あなたはどこでも行きますか」、「本当にどこでも大丈夫ですか」って、何度も念を押されたのが記憶に残っていて、自分の希望は通らないことは予測していたんです。安全そうな国だし、まずは行って経験を積まないことには日本語教師としてのキャリアも積めないので、とにかく行けることになったのがうれしかったです。

瀬尾ま ブータンはどうでしたか。

菊岡 楽しかったですが、一方で自分の未熟さを身に染みて感じた2年間でした。私はブータンの観光庁に派遣されました。観光庁では、海外からの観光客を迎え入れるためのガイドを育成していて、そこで日本語ガイドになりたい人に日本語を教えていました。

瀬尾ゆ 養成講座を出てすぐでしたけど、教えることはどうでしたか。

菊岡 大変でした。養成講座で習ったことを一生懸命実践していましたね。

瀬尾ま 途上国だと養成講座で習ったことが活かせないこともありましたか。

菊岡 実は途上国の教育にはぴったりだったのかもしれません。というのも、当時養成講座で学ぶ教室活動って、絵カードを使った導入活動やパターンプラクティス、アクティビティだったので、手書きでフラッシュカードを作って、カードをめくってパターンプラクティスをしていました。

瀬尾ま 初めての日本語教師の経験だったと思うんですが、日本語教師としての成長につながったと感じましたか。

菊岡 どうなんでしょうね。ブータンは当時インターネットも自由に使えないし、ほかに相談する相手もなくとにかく一人で試行錯誤してやっていたので。ただ、授業は楽しかったです。日本語を使って仕事をしたい、という意欲のある学生さんが多くて教師としてやりがいがありました。それに、学習者の方と一緒にいる楽しさも、その2年間で実感しました。停電して復旧まで1週間かかったとき、みんなでオフィスの前の芝生にホワイトボードを運んで授業をしたのは今思い出しても懐かしいです。冬だったので電気が切れると、とにかく寒かったんです。だから、外で日なたぼっこしながらやったほうがはるかに暖かいんですよね。ただ、自分の未熟さを感じることも多かったです。日本語ガイド対象の日本語って、本来ものすごく実践的な日本語教育じゃないですか。当時は自分の教え方がどのように実践につながるかって発想が十分になかったので、自分なりに工夫はしましたが、今思い返すとああすればよかった、こうすればよかったということは山ほどあります。

瀬尾ま 地域の日本語教育にかかわってから海外の現場に行くと、日本語教育に対するイメージや意識が変わったりしましたか。

菊岡 日本語教育について私は何も知らないんだなということに気がつきました。地域の日本語教室は、日本語を教えるといってもおしゃべりベースでしたし、養成講座で学んだことがすべてだったので苦労は多かったです。それで、次は大学院への進学だなと思いました。

「やっぱり研究ってしんどいな」「やっぱり研究っておもしろいよね」―大学院進学、休学、そして復学

瀬尾ゆ 大学院については、どのように情報収集されたんですか。

菊岡 協力隊日本語教師OB・OGのメーリングリストを活用しました。そこに「日本語教育が学べる大学院でいいところを紹介してください」と書き込みをしたら、一番に返事をくれたのが、今は東京女子大学にいらっしゃる松尾慎さんだったんです。それで、2月に日本に帰国して、1年間愛知の日本語学校で非常勤講師をしながら大学院の入試に備えました。

瀬尾ま 大阪大学言語文化研究科に進まれたのは、松尾さんの影響が強かったんですか。

菊岡 いえ、と言ってしまうと松尾さんに失礼ですが、松尾さんはその後すぐにインドネシアに行かれて、大学院に入ってしばらくは面識もなかったんです。大学院について実際に教えてくれたのは松尾さんの後輩で、当時、言語文化研究科の院生だった現日本語教育学会副会長の神吉宇一さんでした。青年海外協力隊での経験を活かして観光ガイドのための教科書を作りたいなと言ったら、専門日本語教育を研究されている村岡貴子先生を紹介してくださいました。

瀬尾ま 大学院に入ってみてどうでしたか。

菊岡 1年目は特に訳がわからなかったです。西口光一先生の授業では当時社会文化的アプローチによる第二言語習得を扱っていて、論文講読で私が担当したのはスウェインが書いた『アウトプット仮説を超えて(The output hypothesis and beyond)』という英語の論文だったんです。必死になって辞書を引きまくって読みましたね。今思えば、まず研究生をしてから大学院に入ったほうがよかったんじゃないかとも思うんですが、怖いもの知らずって本当に恐ろしいですね。

瀬尾ゆ 修士論文ではどのようなことを書かれたんですか。

菊岡 教室での第二言語学習を状況論の観点から分析しました。2004年に『日本語教育』に載せた論文がその一部です。某留学生センターでデータを取らせてもらいましたが、そのときも南米の方たちに助けられたんですよ。すごく明るい人たちで、その人たちがクラスで教科書のことばを楽しく遊びのように使っていて、その人たちが使うとみんながワーっと真似をしだすんです。そういったフレーズが別のシチュエーションでも使われて、そのときと同じような盛り上がりが再現されて、教科書のある意味「死んだようなことば」が、文脈の中で息を吹き返すような現象だと思ったんです。そしたら、西口先生がその現象に「それはみんなの『favorite phrase』やんか」と名前を付けてくださったんです。

瀬尾ま 最初は観光ガイドのための教材を作るというお話をされていたと思うんですが、研究のテーマは大きく変わったんですね。

菊岡 変わりましたね。考えてみればブータンに戻って観光ガイドの日本語に関するデータを取るのは現実的に無理でしたし、それに、西口先生の授業で状況論や社会文化的アプローチの新しい世界観に触れてすっかり影響されました。とにかく西口先生の語りがおもしろかったんです。また、当時の仲間の影響も大きいです。自分たちで勉強会するだけに飽き足らず、他大学の研究会にも乗り込んで行ったりと本当にアクティブだったんです。

瀬尾ま 英語論文を読んで大変だったという話がありましたが、修士課程を通してそれは克服されましたか。

菊岡 結局、論文を読むのは2年間を通してずっと大変でしたね。でも、仲間が企画する勉強会や読書会にカルガモの子どものようについて行っているうちに、まったく知らなかったことをたくさん知ることができて、文献についてああでもないこうでもないとディスカッションすることって楽しいんだなって、そこでの経験を通して思うようになりました。みなさん本当に度量の広い方々ばかりで、私がとんちんかんなことを言っても、「おまえ、バカだな」っていう目で見ることもなく受け入れてくれていたので、それがとってもうれしかったですね。だから、修士課程の2年間は勉強も研究も飲み会もフルでやっていた感じがします。

瀬尾ゆ 大学院のときは、お仕事はどうされていたんですか。

菊岡 大学院に進学すると同時に大阪に移って、しばらくしてから日本語学校で非常勤講師を始めて、働きながら大学院に通っていました。そういう生活を2年して、博士課程に進学しました。

瀬尾ゆ ご両親は、その頃はもう日本語教師の道に進むことは認められていたんですか。

菊岡 あきらめていました(笑)。博士課程に進学するときに、母親から「私はあなたに博士課程に進学してほしいなんてことを一度も思ったことはなかった。育て方を間違えたかしら」と言われましたね。

瀬尾ま 修士でもういいやと思う人も結構多いと思うんですけれども、研究は苦にならなかったんですか。

菊岡 もういいやとは思わなかったですね。それに研究が苦しくなりだしたのって博士課程に入ったあとからですね。当時、「あなたは何が見たいの?」、「あなたはこれで何を明らかにしたいの?」っていう質問が結構しんどかったんです。それでも1年目は修士論文を投稿論文にしたりしてそれなりに時を過ごしたんですけれども、2年目ぐらいからは自分が知りたいことがなんなのかを模索することのきつさを感じて、研究の壁にぶち当たって。とにかく研究から一回離れようと思って、休学をしたんです。そして、愛知の実家に帰って、大学の留学生別科で非常勤で朝から夕方まで毎日働くようになりました。

瀬尾ゆ そのとき、退学ではなく休学にしたのは、今後戻る選択肢を残すためですか。

菊岡 私、結構ぐずぐずした性格なので、やっぱり未練はあったんです。ただ、この行き詰まった状態では博士論文もたぶん書けないなと思ったのもあるし、修士論文のときは終わったあと自分ではもう読みたくないなって思ったんですね。だから、博士論文では、修了したあとに私自身がまた読んでもいいと思えるような論文を書きたいという思いが残っていて、その気持ちが捨てられなかったので、退学ではなく休学という形をとりました。で、実際には博士課程に戻ったわけですね。

瀬尾ま 博士課程に戻ろうと思ったきっかけは何だったんですか。

菊岡 休学中に、大学院の先輩だった神吉さんが「浜松で調査があるけど、やれへん?」と声をかけてくれて、就労現場の日本語について調査をするプロジェクトに調査協力員として関わるようになったんです。浜松ですから、地域に暮らす南米の方々が中心となる現場です。そこでのフィールドワークのデータを博士論文にも使っていいと言ってくださって、最終的には博士論文の半分ぐらいのデータになりました。

瀬尾ゆ 良いデータが手に入ったんですね。

菊岡 あと夫の影響もありますね。実は夫もヴィゴツキーを専門にする研究者で、もともと知り合いだったんです。私が休学しているときに、夫、と言っても当時はただの友達ですが、彼が自分の書いた本を送ってきてくれたんです。その本に私の論文を引用していて、電話で「すごくいい論文だったから、休学中って聞いたけど最後までがんばってみて」って言われ、それをきっかけにまた会うようになりました。それで、研究の話を一緒にするなかで、「やっぱり研究っておもしろいよね」って思うようになりました。プライベートな話で恐縮なんですが、それがきっかけにもなりましたね。

瀬尾ゆ 博士論文の研究テーマは何だったんですか。

菊岡 教室で学ぶ日本語と、生活で学ぶ日本語の習得の違いを分析しました。就労現場の作業を伴う具体的なやり取りに堪能な学習者が、過去の自分のミスを説明するような少し抽象度の高いやりとりにはまったく関わることができなくなる、という現象をとらえ、それをヴィゴツキーの科学的概念と生活的概念を援用して議論しました。今のことばを使っていえば、ヨーロッパ言語共通参照枠のA2レベルとB1レベルの違いを取り上げたという感じでしょうか。調査に協力してくれた外国人の中には転職を考える人もいたのですが、その人の日本語力では、その人の今の文脈から離れた日本語は難しい。だから、自立的に日本社会で生きるためには現場の日本語にとどまらない文脈を越える力が必要で、その力を養うことができるのが、教室での日本語学習だということを論じました。

瀬尾ま 教室のデータと就労現場のデータをつなぐのは大変ではなかったですか。

菊岡 難しかったです。博士に入ってしばらくは、教室の言語習得をずっと見ていたんです。でも、教室の言語習得は大量の研究があって、ちっとも新しい視点が出せなかったんです。そういう行き詰まりもあって、いったんは挫折しちゃったんですけれども、就労現場のデータに出会うことで、教室のデータを活かす道を見つけることができました。それに、もともと観光ガイドの日本語から研究をスタートさせようとしていたことを考えると、やっぱり職場のような何らかの専門領域での日本語に興味関心があったんだと改めて気づかされたし、浜松の現場はまさに地域で暮らし、働く人の現場でしたから私の日本語教育の原点でもあって、ここでいろいろなことが一つにまとまったという気がしました。

「互いに交流しながら研修していくのは本当に魅力的」―国際交流基金での仕事

瀬尾ゆ 復学後は大阪に戻られたんですか。

菊岡 結婚して高知に住んで、日帰りや一泊でゼミ指導のために大阪に通っていました。

瀬尾ゆ 高知に行くと仕事がなくなるかもという不安はなかったですか。

菊岡 そうですね。ただ、一方で、博士論文が佳境に差し掛かっていたので、しばらくは集中して博士論文を仕上げようと思っていました。仕事はその後でもいいか、と。だけど、実際に行ってみたら、物足りないというか、寂しい部分もあったので、当たって砕けろで高知県内の教育機関に電話で問い合わせをしたんです。すると、高校で非常勤講師として留学生に日本語を教えられることになりました。

瀬尾ゆ お子さんが生まれたのもその頃ですか。

菊岡 そうです。博士論文を仕上げたのが2010年の10月末で、出産したのが2011年の1月。出産の前に博論を提出できてよかったなってしみじみと思った記憶があります。

瀬尾ま 子育ては高知でどれぐらいされたんですか。

菊岡 高知には3年住んだんですが、子育ては1年しかしていません。子育てを1年して、どう仕事に復帰しようかなと思っていたところに、夫が東京の職場に転職することになり、私も関東で就職活動を始めました。2013年に国際交流基金日本語国際センターに採用されて、今年で7年になります。最初の6年間は教師研修をやって、今年初めて異動になって、今は教材開発をやっています。

瀬尾ゆ 教師研修ではどんなことをされていたんですか。

菊岡 海外で日本語を教えている先生を浦和のセンターに招いて、教授法や日本語を教えていました。大学の先生はもちろん、高校で教える先生や日本語学校の先生、中には自分で学校を作ったという校長先生など、いろんな方々がいます。そういう異なるバックグラウンドを持つ先生方が日本語国際センターに一堂に会して、それぞれ国の教育カリキュラムや教え方の違いがあるなかで、学生のためにいい日本語教育をしたいという思いを共通項に研修していくのは本当に魅力的だと思っています。それこそ、私が経験した海外青年協力隊の訓練所のような感じで、昼は研修の授業に参加し、夜もセンターの宿泊棟で一緒に過ごして、お互いに情報交換や議論をしたり。自国では一人で教えていて周りにはだれも相談できる相手がいないという人が、研修で出会った他の国の先生と交流しネットワークを作るのも、うちの研修の目的なので、その辺のつながりもすごく大事にしています。

瀬尾ま 日本語を教えることと、教師教育や教材開発とはけっこう違うのかなという気がしますが、実際に日本語を教えたいという気持ちはありませんか。

菊岡 質問の答えとして適当なのかどうかはわかりませんが、今の仕事にはやりがいを感じています。教材開発は、日本語教育のリソースを世界の皆さんに提供する仕事ですし、教師教育はそうしたリソースをどう世界の現場に応用するかを考える機会を提供する仕事です。直接日本語を教える仕事ではありませんが、常に現場とのつながりを感じているし、そして、現場感覚を忘れないようにしています。

菊岡 それに最近、私にとってちょっとうれしいことがあったんです。国際交流基金が特定技能外国人材向け日本語教育事業を開始したことです。地域で暮らす外国人の方々に思いを寄せてきた私としては、特定技能での来日を希望する人たちへの日本語教育を支援するのは、日本で暮らす人たち、日本で働く人たちの支援につながるという点で、自分の日本語教育の原点につながるものだと感じました。今は教材開発をしているのですが、今作っている教材が、少しでも日本で暮らす、日本で働くことを希望する外国人の方々の力になったらいいなと思って、仕事をしています。

瀬尾ゆ お子さんが生まれて1年ぐらいで国際交流基金での仕事を始められて、育児との両立はいかがでしたか。

菊岡 私は出産から1年間は高知で過ごしたので、産休、育休をとっていないんですよ。こちらに引っ越してきてからは、さすがに公立は無理でしたけど、小さな保育室になんとか子どもを預けることができて、割とスムーズに仕事が始められました。保育園ってありがたいことに夜7時まで見てくれるので、9時15分から5時45分までの勤務時間で、特に時短で働くこともなく5時45分ちょっと過ぎまで仕事をして、パッと走って行けば十分間に合いましたね。

瀬尾ま お子さんが病気になったときはどうされていますか。

菊岡 国際交流基金はシステムが整っているので、特別休暇をいただけます。特別休暇を取得することに批判的な目を向ける人もおらず、研修中で本当に急なときでも、みなさん「わかった、代わるよ」と言ってくださるんですよ。授業や会議があって休めないときには夫に休んでもらったり、愛知の私の実家や東京の夫の実家から来てもらったり、周りのサポートを得ながらやっていました。本当にありがたいことですよね。

瀬尾ゆ 学会にもお子さんを連れてこられていましたよね。

菊岡 そうですね。最初に連れて行ったのは、日本語教育学会の秋季大会が沖縄であったときですね。そのときは娘を連れて行って、自分の横に座らせてYouTubeのビデオを見せたりしていました。そういうことを受け入れてくれる土壌のある日本語教育の世界にも感謝しています。基金の先輩方の中には子育てをしていた当時、お子さんを夜10時ぐらいまで預けて働いていましたっていう方もいらっしゃるし、本心はいろいろ思うところはあるかもしれないですけれども、今の時代はそうではないと割り切ってくださっているので、子育てにはいい時代になったと思います。それに、今の職場でも男性が育休をとっているんですけれども、そういうこともだんだん増えてきていますよね。

「『大事にしたいもの』を一つ見つけてください」―菊岡さんからのメッセージ

瀬尾ま 最後に、今から日本語教師になりたい人やキャリアの浅い人たちに向けてメッセージをお願いいたします。

菊岡 地域でのブラジルやペルーから来た南米の方々との出会いは、私にとって一番の刺激でした。南米に行きたいと言いながらブータンに行ったり、大学院に進学して偶然にも外国人の方々が働く工場でフィールドワークをし、働きながら日本語を習得する現象をテーマに研究し、今、国際交流基金で仕事をしている。こうして話してみると、私の日本語教育人生は行き当たりばったりだったと思いますが、地元愛知で最初に会った地域在住外国人の方々、つまり、日本で暮らし、働き、日本社会をともに支えてくれている方々との出会いが常に根っこにあり、それが私の教育人生を導き、つなげてきてくれたと実感しています。みなさんも日本語教育の世界の中に「大事にしたいもの」を一つ見つけてください。日本語教師の仕事をしていくうえで、その「大事にしたいもの」がみなさんの道しるべになると思います。私にとって、地域在住外国人の方との出会いが、その「大事にしたいもの」です。

インタビューを終えて

瀬尾ま ご自身の研究について生き生きと語られる菊岡さんの姿に、研究を本当に楽しんでされているんだなと思いました。先行研究やご自身の研究のデータと向き合い、そして周囲とのやりとりのなかで書き上げられており、そういうふうに研究を進めていくことの大切さを改めて感じました。
瀬尾ゆ 「大事にしたいもの」、私自身も最近ようやく自分が本当に何を大事にしたいと思ってきたのかがわかってきた気がします。菊岡さんが「こうして話してみると…」とおっしゃっているように、「大事にしたいもの」は自分の来し方・今現在を振り返る中で見えてくるのだろうと思いました。

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