
「社会の仕組みを変える、多様性があふれる社会に」浅倉 みさきさん
今回は、特定非営利法人青少年自立援助センター(YSC)の定住外国人支援事業部で働く浅倉みさきさんにお話をうかがいました。(日本語教師の履歴書 vol.18でYSC責任者の田中宝紀さんも登場してくださっています。)
浅倉さんは大学で日本語教育を学んだ後、日本語パートナーズとして海外で活動し、国内の日本語学校勤務を経て、現職に就かれました。
《今回の「日本語教師」》 浅倉みさき(あさくら・みさき)さん
NPO法人青少年自立援助センター(YSC)、定住外国人支援事業部コーディネーター。登録日本語教員。茨城大学にて副専攻の日本語教育プログラムを履修。大学を卒業後、独立行政法人国際交流基金の日本語パートナーズでインドネシアに派遣。日本国内外で様々な日本語学習者に日本語教育を実践し、現在は上記のNPOにて、日本全国の外国ルーツ支援を行う方々への中間支援を行う。
「自分の言いたいことが言えないっていうのは、こんなに大変なんだ」―インドネシアでの日本語教育の実習
瀬尾ま 日本語教師になろうと思ったきっかけを教えていただけますか。
浅倉 高校生の時に、外国の人とお話しできる仕事がしたいと思っていました。自分がやれるのは外国語ではなく日本語だなと感じていて、日本語の先生になりたいなと、ふわっと思っていたんです。それで、日本語教育を学べる別の大学を志望していたんですが、前期日程で落ちてしまって、後期日程で茨城大学に合格したんです。茨城大学には日本語教育を学ぶ学部・学科はありませんが、副専攻で学べることは知っていたので、茨城大学に入りました。
瀬尾ま 主専攻は何だったんですか。
浅倉 将来就きたい職業は、一つが日本語教師で、もう一つが広告やコピーライティングの仕事だったんです。だから、どっちに転んでもいいようにマーケティングを専攻しました。
瀬尾ま 茨城大学に入学した時から、日本語教育の副専攻課程に入るつもりだったんですね。
浅倉 はい、そのつもりで1年生の前期から日本語教育に関わる授業を取って、3年生の後期でプログラムを修了しました。
瀬尾ま 大学での日本語教育の勉強はどうでしたか。
浅倉 一番記憶に残っているのは、海外での日本語教育実習ですね。3年生の夏から1年間インドネシア教育大学に派遣されて、初めて海外に行きました。行くまでは海外では英語が通じるものだっていう固定概念があったんですけど、実際には英語が使えるところと英語が使えないところがあって……。私はインドネシア語をほぼ知らない状態で行ったので、現地のことばがわからずに海外で暮らすっていうのは、こんなに大変なんだと思いました。この経験から、日本にいる海外ルーツの子どもたちの大変さが少し理解できるようになったと思います。
瀬尾ゆ インドネシア語ができないと、大変でしたか。
浅倉 はい。インドネシア教育大学って首都のジャカルタじゃなくて、バンドンという街にあるんです。そこの小さな空港に降り立ったんですけど、ロストバケージしていて……。私はインドネシア語ができないから、空港のスタッフに英語で「荷物がない」って伝えたら、私の英語の発音が悪かったのかもしれないんですが、全然通じませんでした。どうしようって思って、英語がしゃべれる人を探して、その人にお願いをしてインドネシア語に通訳してもらったところからインドネシアでの生活が始まりました。寮に着いてすぐに服を買いに行ったんですが、スーパーで買い物しようとしても、ことばのハードルがすごく大きい。自分の言いたいことが言えないっていうのは、こんなに大変なんだと思いました。
瀬尾ま 行く前にインドネシア語は全然勉強していなかったんですか。
浅倉 茨城大学にいたインドネシアからの留学生に少し教えてもらったりはしていたんですけど、それぐらいで、本当に何も勉強せずに行きました。でも、インドネシアではインドネシア語の授業を初級から中級ぐらいまで勉強しました。

瀬尾ま 留学中はインドネシア語の勉強と日本語教育実習がメインだったんですか。
浅倉 そうですね。日本語学科の授業を見学させてもらったり、学生たちと休憩スペースでしゃべったり、日本語サークルに参加したりもしました。日本語学科の友達がすごく仲良くしてくれたこともあり、帰国する時にはある程度インドネシア語がしゃべれるようになっていました。
瀬尾ゆ インドネシアでの日本語教育実習はどうでしたか。
浅倉 大学を卒業してから日本語学校に3年間勤めたんですけれど、インドネシア教育大学の学習者と日本語学校の留学生ってこんなに違うんだなって思いました。
瀬尾ゆ へえ。どう違ったんですか。
浅倉 インドネシア教育大学で実習した時は、体系的に教えることを意識していなくて……。先生から「ここを教えてください」って授業を任されるんですが、日本語が母語だから文法よりは会話を中心に教えてねっていう感じで、会話を多めにして授業を作っていたんです。でも、日本語学校では文法をがっつり教え込むことが多かったので、海外か国内かとか、母語話者か非母語話者かとか、自分がどういう立場にいるかによって教え方や教える内容が変わってくるんだなって思いました。
「大学卒業と同時に海外に行ける仕事って何だろう」―日本語パートナーズでインドネシアに
瀬尾ま インドネシアから帰国してからは、どうされたんですか。
浅倉 就職活動をしました。海外経験を増やしたいと思っていて、企業の面接で「私は海外に行きたいんです」と話していました。企業の方々に「いつから?」って聞かれると、「1年目から行きたいです」って答えていたんです。でも、企業は最初は国内でちゃんと力をつけてから海外に行かせようと考えているところが多いので、結構いい線までは進むんですが、最終的には落ちていました。それで、日本語教師だったら大学卒業と同時に海外に行けそうだなと思い、日本語教師の海外での求人を見始めました。それで日本語パートナーズの募集を見つけたんです。経済的な負担とか諸々考えると日本語パートナーズがいいと思って、応募して、インドネシアのジョグジャカルタに派遣されることになりました。
瀬尾ゆ インドネシアは希望されたんですか。
浅倉 書類には派遣先はどこでもいいと書きました。でも、インドネシアの枠の数が多かったということと、インドネシア語が話せたということでインドネシアに決まったようです。
瀬尾ま 日本語パートナーズだと、学習者は中学生や高校生ですか。
浅倉 はい。中学校や高校の日本語の授業に現地の先生と一緒に入って、会話や発音の練習をしたりしました。
瀬尾ま 大学での日本語教育の勉強は生かすことができましたか。
浅倉 大学の時に学んだ日本語教育とは全然違いました。日本語パートナーズはどちらかというと日本語をがっつり教えるのではなくて、日本語を介して日本のことを教えるっていう感じでしたね。ぜんぜん日本語がわからない子どもたちに日本文化を教えなきゃいけないので、絵をふんだんに使った教材を作ったり、全然伝わらない時は先生にインドネシア語に通訳してもらったりしていました。
瀬尾ゆ 授業ではどんなことをされたんですか。
浅倉 日本にはこういうものがあるんだよ、みたいな感じでやっていました。例えば、カタカナで自分の名前が書けるようになることを目指して、消しゴムに自分の名前をカタカナで書いて彫って、消しゴムハンコの文化を教えるという活動をしました。

瀬尾ま 面白そうですね。もともと子どもは好きだったんですか。
浅倉 はい。もともと子どもにかかわる仕事はしたいなとは思っていました。ただ、日本語教師という資格で働ける場所って、日本語学校か大学ぐらいしかイメージがなかったので……。小学校の入り込みの仕事も調べてはいましたが、それで生計を立てるのは難しいということと、日本語教師の経験を積むために、帰国後は日本語学校に勤めることにしました。
日本語学校での違和感が解消できるのは何だろう―日本語学校からNPOに転職
瀬尾ゆ どちらの日本語学校で働かれていたんですか。
浅倉 水戸市の日本語学校です。たまたま求人が出ていて応募して、専任で働かせていただくことになりました。
瀬尾ま インドネシアの大学、中学校、高校で教えてきたあとに、国内の日本語学校となると、だいぶ違ったんじゃないですか。
浅倉 そうですね。ただ、ずっと一貫して「飽きない授業をしよう」っていうことでやっていました。学習者が主体性を持って動ける活動をしたり話せる時間を設けたりしたいなと考えていて、日本語学校でも文法を中心に教えつつも、それまでの経験を生かして、習った文法を実際に使う機会を意識して作っていました。

瀬尾ま 日本語学校では進路指導などもするんですか。
浅倉 はい。私が勤めていた日本語学校では、担任が生活指導や進路指導をすることもありました。なので、日本に住む外国人がどういった経緯で日本に来て、どう在留資格を更新しているのかというような、日本語を教える以外のことも学ばせていただきました。ただ、日本語学校での留学生の難しい状況を垣間見ることもあり、うまく感情の処理ができないこともありました。
瀬尾ま 授業以外の側面が見えたわけですね。それで嫌になったりはしなかったんですか。
浅倉 嫌になったわけではないんですけれど、やっぱり違和感がありました。どうしたら違和感が解消できるだろうという気持ちが、NPOで働くことにつながったかもしれません。
瀬尾ま じゃ、結構やりたいことが見えてきて、NPOに転職したんですか。
浅倉 それもありますが、もともと日本に帰ってきた時にYSCに入りたかったんです。ただ、その時は求人が出ていなかったし、過去の求人に「社会人経験が必要」という条件や、日本語教師などの資格があることが望ましいということが書いてありました。だから、日本語教師としての経験をちゃんと積もうと思って、日本語学校で3年間働くことにしたんです。で、さっきお話ししたような違和感が湧き始めた時に、ちょうどYSCの求人が出てたんです。
瀬尾ゆ 3年っていうのは、あらかじめ決めていたんですか。
浅倉 また日本語学校に戻ることになった場合に教務主任になるために、日本語学校に3年は勤めようかなと自分の中でなんとなく考えてはいました。でも、たまたまタイミングが合ったというのが強いですね。
社会の仕組みや社会の考え方を変えるような、子どもたちが不利益を被らないような社会づくりにかかわりたい―NPOでの中間支援のお仕事
瀬尾ゆ もともとは、どうしてYSCに興味を持たれていたんですか。
浅倉 子どもにかかわる仕事がしたいと思っていたんですが、フルタイムで生活できて子どもの教育にかかわることができる団体としてYSCを紹介していただいたんです。それで、YSCの活動を追うようになりました。
瀬尾ゆ へえ。どなたに紹介してもらったんですか。
浅倉 Facebookに「日本に住む子どもたちに日本語を教えたいんだけど、どういう仕事があるかわからない」って投稿したら、こんな団体やこんな仕事があるよっていろんな人に教えていただいて。
瀬尾ま すごい! ソーシャルメディアの力ですね。
浅倉 本当にそうですね。それまで日本語学校や大学で日本語を教えるっていうイメージしかなかったんですが、日本語学校に入る前にこういう団体があるというのを知ることができました。もし知らなかったら、日本語学校でそのまま教務主任を目指してたんじゃないかなと思います。

瀬尾ま YSCでは、どんなお仕事をされているんですか。
浅倉 YSCには定住外国人支援事業部という部署があって、その中にYSCグローバルスクールがあります。そこでは、子どもたちに日本語の支援をしているんですが、私は日本語教師として直接子どもたちに教えているわけではないんです。
私は中間支援事業といって、日本語を教えたり海外ルーツのお子さんの支援をしたりしたい団体さんをサポートする仕事をしています。具体的には、YSCグローバルスクールでの知見の共有や、ネットワークづくりなどに関わらせていただいています。中間支援の中で、休眠預金活用事業のプログラムオフィサーとして活動するときもあります。
瀬尾ゆ 直接子どもを教えるのではなく、中間支援事業をされているんですね。
浅倉 ええ。日本語教師の求人も出ていましたし、子どもと関わりたいという気持ちもあったんですが、中間支援事業を選んだのには、私が岩手県出身っていうことがありました。岩手県は海外ルーツの子どもの数が少なく、支援がつきにくい状況があるんです。面接で「なんで中間支援事業のほうに応募したの?」と聞かれたときに、なかなか届いていない場所に支援を届けるためのお手伝いがしたいと伝えました。
今は日本語学校で自分がしてきた生活のサポートが、コーディネーターの仕事に近いなと感じていますし、その強みを生かして中間支援ができているなと思います。それに、日本語教師として日本語を教えてきたので、日本語ができない子どもに対するカリキュラムや接し方についてお話しできて、それも自分の強みになっています。
瀬尾ま 今のお仕事で大変なことはありますか。
浅倉 入ったときも大変でしたが、今も休眠預金活用事業のプログラムオフィサーという新しい仕事にチャレンジさせていただいているので、自分が知らないことがたくさんあります。だから、ちゃんと学び続けないといけないですし、私より支援経験が長い方と接することもあるので、情報をアップデートし続けないといけないと思っています。
瀬尾ゆ これからも中間支援の仕事を続けられるんですか。

浅倉 YSCにはフルタイムじゃないにしても、ずっと関わっていきたいなと思っています。YSCが2010年からずっとやってきたことはすごく大切なことですし、私もYSCに入っていなかったら参加できなかったような方々との話し合いの場に同席させてもらったり、YSCのスタッフの方々とお話しするなかでたくさん学ばせてもらっています。だから、その分ちゃんとYSCに恩返しできたらいいなと思っています。
もともと日本語教師や海外の方と接する仕事に興味を持ったのは、私が小中学生のときに住んでいたところの田舎ならではの同調圧力がすごく苦手だったからなんです。そんな環境でALTとして海外から来た先生とお話ししたり、数少ない海外ルーツの友達と自分が知らないことばでコミュニケーションをしたりする経験を通して、刺激をもらいました。でも、それ以外の周りの人とはうまくやれなくて……。もっと多様性が溢れる社会になったら自分も苦しまなかったのかもしれないという思いがあって、中間支援事業みたいな形で社会の仕組みや社会の考え方を変えるような、子どもたちが不利益を被らないような社会づくりにかかわり続けたいと思っています。
「自分が何をやりたいのか、どういうところに興味があるのかというゴールを設定することが大切」―浅倉さんからのメッセージ
瀬尾ま 最後に、今から日本語教師になりたい人やキャリアの浅い人たちに向けてメッセージはありますか。
浅倉 私の経験上、自分が何をやりたいのか、どういうところに興味があるのかというゴールを設定することが大切だと思います。そのゴールは人生の長いゴールでなくてもいいので、短期や中期のゴールを作って、そこに必要なものを取捨選択してくのがいいのかなと思います。私の場合は、まず海外に行くというゴールがあって、そこから日本語学校に入って、今はNPOで働かせていただいているんですけど、自分が何をしたいかが明確だったらキャリアを変えることはそんなに大変なことではないです。それに、仕事においてお金が大事なのかとか、やりがいが大事なのかとか、そういうことを自分で整理していくと、いろんなことにチャレンジできるんじゃないかなと思います。
インタビューを終えて
瀬尾ま 浅倉さんのキャリアには、一貫して「自分は何をしたいのか」という問いが通底しているように感じました。海外での教育実習、日本語学校での勤務、そして現在の中間支援の仕事へと進むなかで、その時々で感じた違和感や気づきを丁寧に受け止め、それを次のキャリアの選択へとつなげてこられた姿が非常に印象的でした。「子どもたちが不利益を被らない社会をつくりたい」という思いがキャリアの軸となっており、教育が社会と深く結びついていることを改めて実感させられました。
瀬尾ゆ海外の高等教育機関や中等教育機関、そして国内の日本語学校での教育実践を経て、現在はNPOで中間支援事業に携わる浅倉さん。その歩みから、日本語教育の現場がいかに多様であるかを改めて実感しました。それぞれの現場での経験を通して、自分のゴールや大切にしたい価値を丁寧に見つめ続けてきた浅倉さんだからこそ、誠実にキャリアを選び取りながら、自分に合った道を築いてこられたのだと感じました。
