日本語教師の履歴書 vol.20 吉口朋江さん


vol.20 「新規校を立ち上げる、食べていける日本語教師を作る、先生個人の夢を応援する」吉口朋江さん

今回は、株式会社グローバルウィザスの執行役員を務める吉口朋江さんです。2021年8月31日にZOOMでお話をうかがいました。


《今回の「日本語教師」》 吉口朋江(よしぐち・ともえ)さん 大学在学中に養成講座を受講。終了後、スウェーデンのヨーテボリ大学にティーチングアシスタントとして赴任。帰国後、民間の日本語学校で非常勤講師として働き始める。一度は転職をするも、日本語教師という仕事のおもしろさが忘れられず、2008年に元気日本語文化学校に就職。東京校・京都校の新規立ち上げの後、現在は名古屋で新たなコース立ち上げに携わっている。


「日本語を勉強することで、彼の留学人生が変わっていく。これはおもしろい仕事だな。」―日本語教師を目指す

瀬尾ま 日本語教師になったきっかけは何だったんですか。

吉口 もともと外国に興味があって、大学で国際文化を学びました。第二外国語でドイツ語を履修しようと思ったんですが、希望者が多くて授業がとれなくて……。それで、大学の先生に「ドイツ語以外だったら、どんな外国語を勉強すればいいと思いますか」と相談したら、その先生から留学生の授業に参加しないかってお声掛けをいただいたんです。

瀬尾ゆ お声掛け?

吉口 はい。その時、大学には北欧の国から留学生が10人ぐらい来ていたんですが、そのうちの1人のフィンランドからの留学生がまったく日本語を勉強したことがない状態で留学していたんです。国で半年なり1年なり日本語学習をしてから日本に来るというプログラムだったので、ほかの留学生と一緒のクラスは受講させることができないということで、その相談した先生がマンツーマンで授業をしていたんです。それで、いつも先生と2人だと飽きてくるしおもしろくないので授業に遊びに来ないか、ってお声掛けをいただいたんです。
そしたら、最初はまったく何も通じなかったのが、半年ぐらい経ってくると会話が成り立つようになってきて、その留学生もほかの日本人学生と食堂とかで会話ができるようになって、どんどん日本人学生の輪に入れるようになったんですね。日本語を勉強することで彼の留学人生が変わっていくのを見たときに、これはおもしろい仕事だなと思ったのが、最初のきっかけでした。

瀬尾ま瀬尾ゆ へー。

吉口 それが大学2年生のとき。日本語教師の仕事に興味を持ったものの、大学には日本語教育を勉強するコースがないことがわかり、これはどうしたものかと日本語教師のなり方を自分なりに調べたんです。そしたら、養成講座に通えと。でも、私は出身が愛知県で北海道の大学に通わせてもらい、生活費や大学の学費を出してもらっていたので、さすがに養成講座のお金まで出してくれとは親に言えないなと思いました。それで、3年間で大学4年分の単位を必死に取って、最後の1年は愛知県の実家に帰って家賃や生活費を浮かして、実家近くの養成講座に通わせてもらいました。

瀬尾ゆ 養成講座を受け始めたときから、日本語教師になる気満々だったんですか。

吉口 そうですね。こんなに現実が厳しいとは知らずに……。

瀬尾ま 調べているときは現実が厳しいとはあまり気がつかなかったんですか。

吉口 やはり情報で得るのと、実際に経験するのとではギャップがありましたね。養成講座に通い始めた初日に先生が「日本語教師では食べてはいけないよ」みたいに現実を語り始めたのを覚えています。

瀬尾ゆ やる気満々で入ったのに、くじけたりはしなかったですか。

吉口 やってみようかなというのが強くあったんだと思います。漠然となんですが、自分の性格上、事務職には向いていないという頭があったんですよね。1日座って作業をするような仕事に自分は向いていないと思っていたので、一般企業に就職したいとも特に思っていなかったんです。ありがたいことに両親もやりたいことをやってもいいとサポートをしてくれていたので、ひとまず日本語教師を始めてみようかなと思っていました。

瀬尾ま 大学を卒業してすぐに日本語教師の仕事を始められたんですか。

吉口 結局大学で第二外国語はスウェーデン語を取ったんですが、その関係で2年生の夏にストックホルムに短期留学に行きました。スウェーデン語の先生が現地の大学と関係を持っていて、スウェーデンのヨーテボリ大学の日本語学科でティーチングアシスタントを毎年日本から招聘していて、ちょうど養成講座が終わる頃に声を掛けてくださったんです。

瀬尾ま ティーチングアシスタントではどんなことをされていたんですか。

吉口 現地の先生が文法を教えて、私は毎日4時間、会話の授業を担当していました。

「他の仕事では得られないやりがいがある」―国内の日本語学校で働き始める

瀬尾ま 日本に戻られてからは、どうされたんですか。

吉口 地元の愛知県の日本語学校で仕事を探したんですけれども、海外での経験をカウントしてくれないところが多かったんです。ティーチングアシスタントだったことも関係していたとは思うんですが、「それは1年の教師経験としては見なせない」とはっきりと言われましたね。それは結構大きなショックでした。

瀬尾ゆ そうですよね。

吉口 自分としては1年やってきたという自負があったんですけれども、そう言われて、日本国内の日本語学校で経験を積まないといけないんだなと思いました。

瀬尾ま そうなると、最初の仕事は専任職ではなく?

吉口 非常勤。完全に一からでした。実家に近い日本語学校で最初は1週間に2時間とか4時間とか授業を担当して、主任の先生に教案添削をしてもらったり、授業見学をしてもらったりしました。それ以外の時間はアルバイトをして……。

瀬尾ま 途中でやめたいとは思わなかったんですか。

吉口 毎年思っていました(笑)。日本語学校の非常勤って1年契約なんですよ。その時私は24歳で、バイトを掛け持ちして、家に帰ったら次の日の授業準備をして……。で、毎月の給料明細を見ると「うわー、こんな……」っていう額で……。一般企業に就職した友達と比べると、友達は定時でうちに帰って、土日を謳歌して。みんなが新車を買っているときに、私は服一つ買うこともできなくて……。正直、毎年これでいいんだろうかと思っていましたし、母親からも「その仕事、何年やったら元が取れるの?」みたいに言われたこともありました。

瀬尾ま それでもやめなかったのは、何か理由があるんですか。

吉口 やっぱり、単純に楽しかったからですかね。ほかの仕事では得られないやりがいみたいなものはありました。私は飲食店でアルバイトをすることが多かったんですが、それとはまったく違うやりがいを持てましたね。それに、最初2コマからスタートしたところが、頑張ったら頑張っただけコマ数が増えていったので、このまま頑張れば、いずれ常勤になれるんじゃないかというのが見えました。だから続けることができたんだと思います。

瀬尾ま 上の方も非常勤の先生をよく見てくれていたんですね。

吉口 そうですね。私は本当に恵まれていたと思います。私は24歳で入ったので、当時新卒みたいな感じで、主任の先生だけじゃなくて同僚の先輩の先生方もいろいろと面倒をみてくれていました。わからないことを聞いたらすぐに教えてくれたり、困っていたら「このプリント使っていいよ」と渡してくれたり……。挫折をせずに日本語教師を続けてこられたのは、当時の主任や先輩たちのおかげだと思っています。

瀬尾ゆ 職場の環境は大事ですよね。そこで非常勤講師を何年ぐらいされたんですか。

吉口 2年間非常勤をして、3年目に常勤にならないかと声を掛けていただきました。

瀬尾ゆ 常勤になられて、いかがでしたか。

吉口 非常勤は長机を複数の先生方で共有するんですが、常勤になると自分のデスクがもらえて、それだけでうれしかったですね。

瀬尾ゆ 忙しさは変わりましたか。

吉口 非常勤から常勤になる頃は週に5日授業が入っていたので、担当コマ数の忙しさはそんなに大きく変わった印象はありませんでした。ただ、非常勤は授業の開始時間に合わせて学校に行けばよかったので、授業が午後の時は午後出勤、次の日は朝出勤みたいな感じだったんですが、常勤になってからは定時の規則正しい生活になりましたね。それに、常勤がクラスの時間割やカリキュラムを作成したりするので、授業以外の仕事が増えました。

瀬尾ゆ 給与の面ではいかがでしたか。お母様に「元は取れた?」と聞かれるようなことはなくなりましたか。

吉口 うーん。常勤になっても、時給に換算したらファストフード店でアルバイトするよりも低いんじゃないか? というような感じでしたね。日本語学校って額面だけだと、非常勤のほうが稼げるんですよ。でも、常勤になると給与の額は多少減ってしまうんですけれども、社会保険や福利厚生がついてくる点や、ゴールデンウィークなどの長期休暇があっても給料が変わらないっていうのが常勤のよいところではあると思いますね。

瀬尾ま 非常勤の給料って、休みの有無で本当に左右されますもんね。

吉口 なので、非常勤のときは「来月はいくら入るんだろう?」って不安になるんですよ。だから、何時間働いたから月末にこれぐらい入るはずっていうのをノートに書き込んで自分で給料の予想を立てて、お金を使っていいかを決めていました。そこの心理的な負担はやはり非常勤のときはありましたし、今の若い先生方を見ていても何とかしてあげたいなと思っています。

「やっぱり私はあっち側がいいな」―転職、そしてまた日本語教師に

瀬尾ま その学校ではどれぐらい働かれたんですか。

吉口 常勤を続けていたんですが、20代後半になって収入を考えたときに、このままボーナスもない、何年働いても退職金もないような状況でいいのかと考え始めました。それに、日本語を教えるなかで「日本の会社では」「ビジネスでは」というような話をしたり、敬語を教えたりするときに、「私、ビジネスにかかわったことないし、日本の会社で働いたこともない」って、罪悪感じゃないですけれども、あたかも知っているように教えることに違和感を持ち始めたんです。

瀬尾ゆ 新卒で日本語教師になった場合は、よく感じることかもしれませんね。

吉口 その当時は派遣社員というのが出てきて、派遣の働き方が当たり前になってきていたときでした。大学生のときは事務職には向いていないと自分で思い込んではいたのですが、未経験30歳で事務職は年齢的にもきつくなるなと思って、ちょっとここらでそういうのも経験をしたほうがいいのかなと思い、先輩の先生に相談してみました。すると、1人の先生に「いいんじゃない、離れてみても。日本語教師はいつでも戻って来られる仕事だから、日本語教師がやっぱり好きだったらまた戻ってきたらいいよ」と言われて、いったん日本語教師の仕事をやめて2年ぐらいまったく違う仕事をしていたんです。

瀬尾ま 派遣社員として?

吉口 はい。まずは一般企業で事務の仕事をすることにしました。もしその仕事が続けられるなと思ったら、そのまま続けようと思っていました。

瀬尾ま それで、どうでしたか。

吉口 だめでした(笑)。派遣社員って3か月更新なんです。最初の3か月は新しいことばかりで、会社が扱っている商品についてレクチャーを受けたり、仕事のまわし方を学んだりして、すごく楽しかったんです。でも、ある程度慣れてしまうと、新鮮さがなくなってしまって(笑)。日本語教師って暇な時間ってないと思うんですけれども、事務の仕事って私がやるべき仕事が終わったり、誰からも電話がかかってこなかったりすると、パソコンのマウスを握りしめてボーっとしたりとか、ひたすらシュレッダーをかけたりとか、本当にやることがなくなるんです。それに、私がしていた仕事って、型にはまったこと以外はやらなくてよくて、あまり心地のいいものではなかったんですよ。だから、4か月、5か月経ったときに、このままずっとやることではないなと思い始めて……。そのときの営業所の所長さんは、「このまま正社員になりませんか」と言ってくださったんですが、「すみません。私、向いてないと思います」と丁重にお断りして、半年でやめてしまいました。

瀬尾ゆ それで日本語教育に戻られたんですか。

吉口 いえ、すぐには日本語教育には戻らずに、大手の英会話学校でマネージャーという名の営業職として1年間働きました。

瀬尾ゆ 営業ですか。

吉口 はい。なんでもやりましたね。道に出す看板をデザインして、それを貼ったり、始発で行ってティシュを配ったり、ポスターを抱えて喫茶店とかのお店に行って貼らせてもらったり、生徒からの問い合わせに対応したり……。

瀬尾ゆ お聞きしていると、事務の仕事をしていたときよりは動く感じですね。

吉口 そうですね。前の仕事よりは楽しかったです。でも、英会話学校の先生が生徒さんとやりとりしているのを見ていると、マネージャーである私と生徒さんとの関係性とはやっぱり違うなと思ったんです。教室から先生が教えてる声が聞こえてくると、やっぱり私はあっち側がいいなと思うようになって、それで日本語教育に戻ろうと決めました

「私がやりたいこと、こうしたらいいと思っていることを受け止めてくれる」―日本語教師として再スタート

瀬尾ま 戻るときは、最初にいらっしゃった学校ではなく、別の学校に行かれたんですか。

吉口 元の学校もちょっと考えたんですけど、今勤めている、福岡の元気日本語文化学校(Genki JACS)をたまたまインターネットで見つけて、「何だこの学校は! おもしろそうだぞ」と思い、興味を持ちました。

瀬尾ゆ どういうところに興味を持たれたんですか。

吉口 1つは、欧米の学習者を対象とした学校であったことです。当時は、進学や就職を目的にした学習者ではなく、短期留学の学生しか受け入れていなかったんです。私は高校生のときに短期でカナダのバンクーバーの語学学校に行ったんですが、その学校ではそういうことができるのかなと感じて、おもしろそうだと思いました。それで、連絡をしまして。そしたら、非常勤であればというお返事をいただいたんですが、30歳を超えて非常勤のために福岡まで引っ越して不安定な生活になるのはちょっと嫌だなと思って、そのときは一旦お断りしてしまったんです。

瀬尾ゆ たしかに知らない土地で不安定な生活というのは、不安ですよね。

吉口 でも、後日改めて「常勤職の仕事を用意するので、面接と模擬授業に来ませんか」と声を掛けていただいて、土日を使って福岡に行きました。その学校の創設者であるカービー理恵先生が面接をしてくださったんですが、そのときに「あなたの夢は何ですか」って聞かれたんです。そこで私は厚かましくも、「自分の日本語学校がほしいです」って言ったんです。その前に働いていた学校は、学生たちのためにいいと思うことを現場の先生方が提案してもトップに受け入れてもらえないこともあって、自分の学校があったらと思っていたんです。そしたら、理恵先生が「すごくすてきな夢ですね。応援できることは応援しますよ」って言ってくださって、もう先生に恋をしました(笑)。なので、今は1度もやめようと思ったことがないんですよ。今、私も教師を募集するときには自信を持って「いい学校ですよ」って言えます。それに、理恵先生がしてくださったように、たとえ私たちの学校が通過点になるとしても、それぞれの先生方の個人の夢を純粋に応援したいですし、サポートできることはしようと、本当に思っていますね

瀬尾ま 今のお仕事は、自分のやりたいことがやりやすい環境なんですか。

吉口 実は、私が採用されるまでは講師の方々はみんな九州出身で、ほとんどの方が他校での経験はなかったそうなんです。九州外から人を採ったのが初めで、すごく大きな賭けだったと後々聞きました。でも、先ほどの理恵先生が私の外部での経験をすごく汲んでくださって、私がやりたいこととか、こうしたらいいと思っていることを受け止めてくださったので、楽しかったですし、すごくやりやすかったです。

瀬尾ゆ 具体的に、どういう提案をされたんですか。

吉口 同じ日本語を教える仕事でも、学校が変わると、前の学校では当たり前にやっていたことが当たり前ではなくなることが多々ありますよね。例えば、前の学校では、今週勉強することを書いた時間割を教室に張り出していたんですね。そういうのがあるといいということをお伝えしたり、本当にこまごましたところをお伝えしました。

瀬尾ま それはうちの方法じゃないと跳ね返されるのではなくて、受け止めてくれるっていうのはいいですよね。

吉口 ええ。すごく受け止めてくださって。福岡には3年いて、その後、東京校を出すという話になり、理恵先生から「東京校を出そうと思うんだけど行く?」と言われて、二つ返事でした。「はい、行きます」と言ったら、「もうちょっと考えてもらっていいんだけど」と言われたのを覚えています(笑)。

瀬尾ゆ 学校の立ち上げとは、どんなことをされるんですか。

吉口 ビルだけは社長たちが決めてきたんですが、それ以外は全部相談をしてくださいました。例えば、壁の色や教務室のデザインとかも聞いてくださって。教務室の壁を取っ払って、学生が廊下から先生がいるのが見えて、すぐに声を掛けられるようにしたほうがいいとか、そんな提案も叶えてくださいました。あとは、立ち上げの仕事としては講師の採用ですね。

瀬尾ま 福岡だと名前の通った学校だと思うんですけれども、東京で一からスタートするなかで、講師を集めるのは大変ではなかったですか。

吉口 進学や就職のためではなく、短期で学生を受け入れているという点で珍しい学校だったので、募集をかければそれなりに応募は来る感じでした。

瀬尾ま どんな先生を採用するとか、そんな傾向はありますか。

吉口 一番重視しているのは人柄ですね。あとは「どんどん携わりたいです」という方ですね。日本語学校には常勤が上、非常勤が下というような意識を持っている方もいるようなんですが、学生たちとかかわること、学生たちに日本語を教えることは常勤も非常勤も何も変わらないと思うんです。

瀬尾ゆ そうですね。

吉口 なので、非常勤の先生には遠慮をしてほしくないですし、アイディアもどんどん言ってほしいと考えています。ただ、常勤が唯一違うところは、運営上の雑務が多い点です。掃除をしたり、教科書の発注、学生たちのケアなど、常勤が雑務をすることで非常勤の先生たちも気持ちよく働ける、学生たちも楽しく勉強ができるようになるんです。なので、そういう気持ちがなければ、常勤はちょっと厳しいかもしれません。でも、それ以外のところはまったく差はありませんね。

「食べていける日本語教師を作っていくことが今の私のミッション」―執行役員として

吉口 東京には立ち上げのときから6年いて、その後新しい学校の立ち上げのために京都に2年いて、今は新たなコースの立ち上げのために名古屋にいます。

瀬尾ま いろいろなところで立ち上げをされているんですね。

吉口 はい。「また引っ越すんですか?」ってよく言われます(笑)。

瀬尾ま 今はどういうポジションでいらっしゃるんですか。

吉口 この2021年4月に私たちのGenki Globalは株式会社ウィザスの傘下に入りまして、そこの執行役員をしています。

瀬尾ま そうなると、もう現場で日本語を教えることはあまりされていないんですか。

吉口 しています(笑)。昔に比べれば入ってはいませんが、やっぱり現場からは離れたくないんですよね。入れる隙があれば入るようにしています。コロナ禍で授業をオンライン化したときも、オンラインの授業を担当しました。やっぱりやってみないと研修もできないですし、いつも自分もやってみるようにしています。

瀬尾ゆ コロナ禍の前からオンラインの授業をされていたとお聞きしました。

吉口 はい。十何年前になりますけど、私が福岡にいたときSkypeを使ってレッスンをやっていました。ただ、そのときのSkypeレッスンはうちの学校で勉強したことがある学習者に対して行っていたんです。日本語を勉強して国へ帰っても、地域によっては日本語を勉強し続ける環境がなくなってしまうんですよ。それで、そういう人たちにちょっとでも日本語を継続して勉強してもらって、またうちに帰ってきてくださいねというような、半ばサービス的にやっていました。学習者数が増えてSkypeレッスンは一旦はやめてしまっていたんですけど、コロナ禍でZOOMを使って復活させました。

瀬尾ゆ 今、日本語学校はコロナ禍で大変ですが、吉口さんの学校はいかがですか。

吉口 実は今回オンラインを始めた最大の理由というのは、2020年4月に新型コロナウイルスが広がってクラス数がどんどん減っていって、非常勤の先生方のクラスがなくなってしまったからなんです。今までうちの学校を支えてくれていたのは間違いなく非常勤の先生方で、その先生方が絶対に食いっぱぐれてはいけないと思いました。だから、いかにしてコマを持ち続けてもらえるようにするかということで、帰国せずに残った学生たちのためにオンラインによる授業を提供し始めました。それと同時に、新規の学生のためのオンラインのコースも立ち上げて、非常勤の先生方のコマが減らないように努力しました。なので、新型コロナウイルスを理由に退職された方は今のところいませんね。

瀬尾ゆ 日本語教師の待遇改善についての議論は以前からあったとはいえ、コロナ禍で先生方の雇用をいかに守るかが一層大きな課題になりましたね。

吉口 そうですね。公認日本語教師の議論が活発化して、やっと日本語教師の地位が上がるんじゃないかという期待はあります。私たちは立派な仕事だと思ってやっているんですけど、食べていくことができなくて日本語教師をやめていった先生もやっぱりたくさんいるんですよね。それに、大学で勉強しても収入を理由に日本語教師にならなかったり、養成講座に夢を持って通ったものの、養成講座に通った期間よりも日本語教師として働いた期間が短いままやめていってしまう方もいらっしゃいます。でも、仕方なく日本語教師になる方って私はいないと思うんです。日本語教師に何らかの良いイメージを抱いて、それに向かって勉強をして、やっとなれたのに、収入やブラックな環境を理由にやめるのは本当に残念だと思うんですよね

瀬尾ま そうですね。

吉口 日本語教師の仕事には定年もなく、死ぬまで続けられますし、日々学生から新しいことを学べますし、経験を積めば積むほど得られるものが多い仕事だと思います。そういうおもしろさを私はもっと広めていきたいと思っていますし、食べていける日本語教師を作っていくことが今の私のミッションだと考えています。

「日本語教師は多くの人に出会い、常に学び続けられる仕事」―吉口さんからのメッセージ

瀬尾ま 最後に、今から日本語教師になりたい人やキャリアの浅い人たちに向けてメッセージをお願いいたします。

吉口 実は学習者のほうが私よりもよっぽどいろいろな経験をしていたり、ある道のスペシャリストだったりすることもあります。私は日本語を教えるという点では先生ですけれども、それ以外については基本的にはすべて学習者のほうが上だと思っています。そう考えていくと、自分にとっての普通は世界の人にとっては普通ではないと思うことが多くて、それは結構おもしろいと感じています。自分と違うものに出会って、それがおもしろいと思えるようになったのが、日本語教師をやっていて一番よかったことかもしれません。日本語教師は多くの人に出会えますし、常に学び続けられる仕事なので、こんなに楽しい仕事はほかにないと思っています。なので、短い期間で日本語教師を続けるかどうかを判断するのではなく、長い目で考えて、自信を持って一歩踏み出してほしいと思います

インタビューを終えて

瀬尾ま
養成講座で「日本語教師では食べてはいけないよ」と言われ、非常勤の頃は月々の不安定な収入に、常勤になられてからはボーナスや退職金がないことに悩まれていました。しかし、今はプログラムを運営する側になり、日本語教師をやめていく先生をなくそうと努力されている吉口さんに感銘を受けました。ただ単に課題と捉えるだけではなく、実際に行動に移そうされているのが本当に素敵だと思います!

瀬尾ゆ
「日本語教師の履歴書」でお話をうかがってきた方々は、上司や同僚に恵まれたとおっしゃる方が多いですが、吉口さんも先輩教師に親切にしてもらったり、自分の意見に耳を傾けてくれる職場で働いてこられたようです。それが今、吉口さんが周りの先生のアイディア歓迎し、サポートしようとする姿勢につながっているのかなと思いました。そのような職場が増えていくことで、日本語教育はより充実していくのではないでしょうか。

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