日本語教師の履歴書 vol.19 坂本麻美さん


vol.19 「教師経験を生かし、著者に寄り添い、人とつながり、本を作る」坂本麻美さん

今回は、言語学、日本語教育、英語教育、初年次教育などの学術・教育分野の書籍を出版するくろしお出版の編集者、坂本麻美さんです。2021年8月17日にZOOMでお話をうかがいました。


《今回の「日本語教師」》 坂本麻美(さかもと・あさみ)さん 1980年新潟県生まれ。大学在学中、カイ日本語スクール日本語教師養成講座を受講。卒業後、青年海外協力隊の派遣前訓練のみ参加。その後、早稲田大学大学院日本語教育研究科に進学し、在学中にイーストウエスト日本語学校で非常勤講師を務める。大学院修了後、吉林大学外国語学院で日本語教育に従事。帰国後、早稲田大学日本語教育研究センター及び株式会社アクアで日本語教師、日本工業大学学修支援センターで学生支援チューターを務める。2011年に転職し、くろしお出版に入社。現在は、日本語教材、教師用参考書、言語教育の専門書などを中心に編集している。


「日本語教師になりたい、海外に行きたい」―大学で日本語教育を学び、青年海外協力隊に応募する

瀬尾ま 坂本さんは大学生の時に日本語教育を主専攻で勉強されたとうかがったのですが、どうして大学で日本語教育を勉強しようと思ったのですか。

坂本 『ドク』というドラマ、ご存知ですか? 安田成美と香取慎吾が主演の、日本語学校を舞台にしたドラマです。ミーハーでお恥ずかしいんですが、高校生の時に『ドク』を見て、日本語教師という職業を知ったんです。それで、いろいろな本で日本語教師を調べると、どれにも「大変だけどやりがいがある」と書いてあって、おもしろそうだなと思ったのがきっかけです。高校の修学旅行で行ったオーストラリアで、現地の日本人コーディネーターと仲良くなったんですが、そのときに海外で働くっていう選択肢もあるんだな、海外で日本語を教えるのもおもしろそうだなと思いました。そこで、日本語教師になりたいという気持ちから大学を探して、学習院大学文学部の日本語教育コースで勉強し始めました。

瀬尾ま 日本語教育を勉強してみて、どうでしたか。

坂本 日本語教師になりたいという気持ちが強かったんですが、大学では文学や言語学の授業がメインでした。もっと実践を勉強したいなと思い、大学2年の時に、授業の合間をぬってカイ日本語スクールの日本語教師養成講座に通いました。

瀬尾ゆ 大学で日本語教育を勉強しながらですか。

坂本 ええ。それは420時間の日本語教師養成講座ではなく、100時間で実践をひたすらやるというプログラムで、10人ぐらいの受講生が毎回、交替で模擬授業をするんです。授業準備をして模擬授業、それをひたすら繰り返すというのがとにかくおもしろかったですね。それに、私と同じような大学生のほかに、主婦や会社員、お寺に来る外国の方に日本語を教えたいというお坊さんなど、いろんな人がいて本当におもしろかったです。当時、アルクが出していた『日本語の教え方スーパーキット』をクラスのみんなで買って、それを「次の時間、どれ使う?」とか言いながら選ぶのが楽しかったです。

瀬尾ま 大学のクラスメートは、日本語教師になる人はあまりいなかったんですか。

坂本 文学部の日本語教育コースに進んだんですが、文学コースが1学年100人ぐらいだったのに対し、日本語教育コースは20~30人ぐらいでした。でも、その中で本当に日本語教師になりたいと言っていたのは2、3人で、他は普通に企業に就職すると言っていました。その2、3人で、どうしたら日本語教師になれるかみたいな情報を集めて話していましたね。

瀬尾ゆ 具体的に、どういうふうに情報を集められていたんですか。

坂本 当時は、日本語教師になるために、いろんなことをしました。怖いもの知らずで、いろいろと飛び込みました。

瀬尾ゆ 怖いもの知らずというと?

坂本 日本語教師になりたいと考えていたけれど、どうすればいいのかわからなかったので、「日本語教師の集い」というホームページの掲示板に、匿名で「日本語教師になりたいんです」という書き込みをしました。そこで何度かやりとりをしているうちに、オフ会があるというのを聞いて、行ったりしました。オフ会だから誰が来るかわからなかったんですが、そういう危なっかしいところにも出入りしていましたね。

瀬尾ゆ 危なっかしいところ(笑)。

坂本 でも、そこはちゃんとした集いで、そこで初めて東京外国語大学の荒川洋平先生にお会いして、「日本語教育をやりたいんです」というような話をしました。荒川先生は私がくろしお出版に入ってからもその時のことを覚えてくださっていて、一緒に本も作りました。

瀬尾ゆ 大学生の頃に「こういうところで教えたい」というのはありましたか。

坂本 私は村野良子先生のゼミにいたんですが、先生はオーストラリアで日本語教育に携わられていたことがあって、その時のお話が新鮮でおもしろかったんです。それに、日頃から「日本語教師をやりたいなら一度は海外に行きなさい」とおっしゃっていたので、どの国かというのははっきりしていなかったんですが、海外で教えたいなというのは漠然とありましたね。ただ、その後中国に行ったので、今思うと、なんとなく中国茶が好きで、隣の大きな国である中国に行きたいという気持ちがあったんでしょうね。

瀬尾ま 卒業後、中国に行かれたんですか。

坂本 ええ。親には大学院に進学したいと言っていたんですが、実は青年海外協力隊に応募をしていました。

瀬尾ゆ 青年海外協力隊を選ばれたのは、何か理由があったんですか。

坂本 海外に行くとなった時に、個人で行くのではなく、何か後ろ盾がほしいなと思ったからです。協力隊はボランティアで行くことにはなっていますが、やはり国の派遣という側面があるので、生活の保障や帰国してからの進路のケアなどが充実していると思ったんです。それに、協力隊には日本語教師以外の職業の人もいるので、いろんな職業の人とかかわれるのもおもしろそうだなと思いました。でも、日本語教師の経験もなく、いきなり協力隊の試験を受けたので、絶対に落ちると思っていたんですよ。だから、大学4年の2月まで進路が決まっていなくて、親には大学院に進学すると言っていました。大学院の入試を受けていたわけではなかったんですが……。

瀬尾ゆ 大学院を受けていなかったのも、日本語教師になりたいという気持ちが強かったからですか。

坂本 そうですね。自分としては日本語教師になりたかったからですかね。就職活動で唯一したのは、凡人社とアルクに問い合わせをしたことぐらいです。日本語教育を仕事にしたいと思った時に、日本語教師になるか、日本語教育の企業である出版社で働くかしか、当時は選択肢が思いつかなかったんですよね。

瀬尾ゆ ご両親は協力隊にいくことには納得されていたんですか。

坂本 協力隊が決まった前後に結構喧嘩しました(笑)。親としては、普通に高校と大学に行って就職するんだと思っていたところに、いきなり海外に、しかも1人で行くとなって、びっくりしたんだと思うんですよ。正式に協力隊の合格が決まった時に、「落ちればよかったのに」と言われました。

瀬尾ゆ ご両親の反対をふりきって協力隊に参加されたわけですか。

坂本 協力隊はボランティアではあるけれど、国の派遣として行くわけだから、予防接種もちゃんとするし、事前研修もあるし、帰国すると2年間積み立てたお金をもらえるので、それを元手に次の進路が決められる、すごく恵まれた条件で行けるんだよといったことを説明して、ようやく納得してくれました。

瀬尾ま 実際に中国で教えてみて、いかがでしたか。

坂本 それが、実はですね、派遣前訓練中に体調を崩してしまって……。訓練は最後までやったんですが、一人だけ修了証をもらえなかったんです。その後、ちょっと様子を見ようということになって、まわりが次々と派遣されていくなか、私は週に1回病院に通って治療をしながら様子を見ていたんです。結局、2年間の派遣中は原則帰国できないので派遣中に万が一何かあったら困るからということで、派遣中止になってしまいました。

「これは運命だと思った」―大学院を修了、中国で日本語を教える

坂本 それは人生で初めての大きな挫折でした。親を一生懸命説得して「中国に行く」とあれだけ息巻いていたのに、派遣中止になって、JICAの身分もなくなってしまって、本当に何もすることがなくなってしまったんです。実家にいたので食べるのには困らなかったんですが、毎日悩みながらフリーター生活を送っていました。

瀬尾ま それは確かに悲しいですよね。

坂本 ええ。結構落ち込んでいたので、大学の先輩で、中国で日本語を教えた経験があって、当時早稲田大学日本語教育研究科に通われていた人に相談をしました。そしたら、「ずっと日本語教育の世界にいるんだったら、先に大学院に行くのも選択肢としてありだよ」と言われて。ちょうど相談した日が日本語教育研究科の7期生の入学式の日で、先輩の属していた教材教具研究室を案内してくださったんです。早稲田は4月と9月の半期ごとに入学ができるんですが、「あなたも半年後にここに来るんだよ」といった話をされて。もともと中国に行く前は大学院に行くことも考えていたし、何をすればいいか迷っていたのもあったので、その半年後の9月から、8期生として早稲田の大学院に入ることにしました。大学を卒業して1年半が経っていて、相変わらず日本語を教えた経験はなかったんですが、大学院生という身分を手に入れることができました。

瀬尾ゆ 大学院ではどういうことを研究されたんですか。

坂本 先輩が案内してくれた教材教具研究室に入りました。入学した時は、ICTの活用やウェブ教材のようなマルチメディア教材について研究したいと思っていたんですが、それを2年で論文にするのは無理だと思って……。ぼんやりしたまま入学したので、研究テーマを絞るのにかなり苦労しました。指導教官の吉岡英幸先生も見かねて、「総合教科書における漢字の提出順について調べたら?」とテーマを与えてくれました。教科書とにらめっこしながら、漢字の提出順について調べたんですけど、研究生としては劣等生で、何か深められたような感じにはならなかったですね(笑)。

瀬尾ま 大学院での勉強はどうでしたか。

坂本 吉岡先生のお人柄がよくて、研究室の雰囲気はとてもよかったです。教材と一口に言っても扱う内容は幅広くて、文法、音声、談話研究、海外の教材との比較など、ゼミ生の研究テーマもさまざまでした。また、教材教具研究室ということもあって、新しい日本語教材が出版されたら凡人社の営業の方が紹介に来てくださっていたので、新しい教材についてよくわかりました。それに、先生が凡人社発行の『日本語教材リスト』を古い物からずっと集めてらして、それをもとに、これまでに刊行された日本語教材のリストをゼミ独自で作っていました。今までにこんな教材があったんだと、すごく勉強になりました。

瀬尾ま 大学院在学中は、日本語を教えたりはされたんですか。

坂本 大学院の特別授業に嶋田和子先生がいらしてお話をうかがったんですが、この先生の学校で働きたいなと思って、大学院2年の時にイーストウエスト日本語学校に応募しました。日本語教師の経験はなかったんですが、大学生の時に日本語教育能力検定試験に合格していたので、有資格者ということで採用していただきました。イーストウエストでは初級のクラスを週に1、2回、10カ月ぐらい教えましたね。

瀬尾ゆ 日本語を仕事として初めて教えられたんですね。いかがでしたか。

坂本 日本語教育をずっと勉強してきていましたが、お金をもらって教えるというのは初めてだったので、すごく緊張したのを覚えています。ただ、カイ日本語スクールの養成講座でたくさん模擬授業を経験していたので、今までやってきたことをようやく現実に移せたとも思って、うれしくなりました。なので、授業準備は大変でしたが、楽しかったです。

瀬尾ま 大学院修了後は、そのままイーストウエスト日本語学校でお仕事を続けられたんですか。

坂本 それが、大学院修了間際に、中国の吉林大学で教えていた大学院の先輩が、一時帰国で戻ってきて特別講演をされたんですね。私は大学院2年の時にその講演を聞いたんですが、「自分の後任を探している」とおっしゃっていて。実は、吉林大学のある吉林省長春市って、私が協力隊で行く予定だった街なんです。その街の長春第七十二中学校に派遣される予定だったんですが、それが中止になって大学院に進学したんですよね。そして、大学院を修了する直前に長春で後任を探しているというお話を聞いて、「これは運命だ」と思ったんです。今回は個人なのでまったく後ろ盾がない状態ではあったんですが、挑戦したいなと思いました。

瀬尾ゆ 協力隊で行く予定だった土地に行かれたんですね。中国でのお仕事はいかがでしたか。

坂本 初めて月曜日から金曜日までフルで働く職場だったので、まずはそれが新鮮でした。それに、日本語学校にはいろんな国や地域の学習者がいますが、中国だと中国出身の学習者ばかりで、それも違いましたね。市内でも優秀な大学の日本語学科ということで、学生たちも朝から晩まで日本語漬けで、すごく真面目に勉強してくれていたので、私も勉強になりました。会話と作文、古典文法を担当していたんですが、「学生の質問に答えなきゃ」と一生懸命準備しました。

瀬尾ま そこは2年間いらっしゃったんですか。

坂本 はい。吉林大学に行く前に私を面接してくださった先生が「あまり長く海外にいると日本に帰ってこられなくなる」とおっしゃっていて、自分の中でも2年で帰ろうと決めていました。それに、2年目に中国語が堪能な日本人の先生が着任されて、その先生に付き添ってもらって、私が協力隊で行く予定だった中学校に行けたのも、帰国を決めた理由としては大きかったと思います。

瀬尾ま 派遣予定だった学校に実際に行かれたんですか。

坂本 ええ。自分が中国にいる間にいつか行こうと決めてはいたんですが、そこを訪れるのが怖くてなかなか行けなかったのもありましたし、忙しさにかまけて最初の1年は放っていたんです。でも、2年目に勇気を出して行ってみました。付き添ってもらった先生に訳してもらって、「私は何年か前にこの中学校に日本語教師として派遣される予定だったんですが、中止になって来られなくなったんです。今、日本語の授業はどうなっていますか」と聞いたら、「日本語の授業はなくなって、今は英語教育に力を入れている」と言われました。私は新規派遣としてその学校に行く予定だったので、もし自分が派遣されていたら何か変わっていたのかなとも思ったりはしました。でも、実際に行ってみて、学校の様子を知って、モヤモヤしていた自分の気持ちが一回整理できたように思いました。長春で自分のやりたかったことはやり終えたなと。それで、2年で帰りました。

派遣予定だった中学校の前で

瀬尾ま 日本に帰国してからは何をされたんですか。

坂本 くろしお出版に入社するまでの約2年半、いろんなところで非常勤を掛け持ちしていました。早稲田大学の日本語教育研究センターの非常勤講師として留学生の日本語の授業をしたり、埼玉県にある日本工業大学の学修支援センターで日本人の学生を対象に初年次教育に携わったりしていました。また、吉林大学のつながりで、中国の方が社長をされている企業で、中国の社員の方に日本語を教えたりもしました。あとは、長期休暇で大学の授業がない時に、学生の頃から続けていたテレホンオペレーターのアルバイトをやったりしていて、朝起きたら「今日どこ行くんだっけ?」みたいに毎日違う職場に通う生活を続けていました

学修支援センターでの学生サポートの様子

「つながりながら本を次々作っている」―日本語教師をやめ、くろしお出版に入社する

瀬尾ゆ くろしお出版には、どうして入られたんですか。

坂本 日本工業大学のような工業系の学生さんたちと出会ったことで、「モノづくり」に興味を持ったということがあります。ただ、正直に言うと、日本語教師として食べていくのに限界を感じたというのもありますね。中国から帰国して、実家を出て一人暮らしを始めて、いろんなところで働いてはいたんですが、非常勤講師で食べていくのが本当に大変だということに気がついて……。日本語教師一本でやりたいと思っていたんですが、結局はテレホンオペレーターのアルバイトをしたりして、食べていくためにいろんな仕事をやりました。私は教師同士のネットワークづくりにあまり積極的ではなかったので、だんだん一人で仕事をしているような気になってしまって……。それに、ビジネス経験がないのにビジネスパーソンに日本語を教えるのも後ろめたさを感じるようになってきて……。
それで、それまで会社員という選択肢を避けてきてはいたんですが、日本語教育にかかわりながら会社員をするという選択もしてみようと思ったんです。大学院のゼミが教材教具研究室だったということもあって、本を作る仕事に携わりたいと思い、出版社への就職活動を始めました。くろしお出版に応募したのは、やはり自分が使っていた参考書や教材が身近にあったからです。『日本語文型辞典』や『おたすけタスク』、『日本語生中継』にはずいぶん助けられました。

瀬尾ま 中途採用だと経験が問われるかなと思うのですが、日本語教師から出版社への転職は難しくはなかったですか。

坂本 くろしお出版の応募条件として、修士号取得者かつ日本語教師経験者というのがありました。私はどちらにも当てはまっていたので、応募したんです。応募の際には本の企画書を提出してくださいと言われました。そんなの書いたことはなかったんですけれども(笑)。運よく採用していただきました。

瀬尾ま 会社員そのものの経験がなかったと思うのですが、働いてみていかがでしたか。

坂本 まず週5日机に座って仕事をするのが初めてだったので、ムズムズしました(笑)。それまでは教壇に立って歩き回りながらいろいろとしゃべっていたのが、じっとパソコンや原稿を見て仕事をするというのに最初は慣れなくて、違和感がありましたね。その時ちょうど30歳でしたが、社会人としては1年目で、会社には相当迷惑をかけたと思います。基本もわからず編集部に入ったので、原稿を整理したり、読んでコメントをしたりと、編集補助の仕事から始まりました。

瀬尾ゆ 教師の仕事とはずいぶん違いますね。

坂本 それまでは非常勤の身分だったので、好き放題やっていたところがあったと思います。学生からの評価はあるとしても、自分の仕事がどう評価されるのかをあまり意識していませんでした。編集部に入ると、年に何冊、本を出しているのか、その本がどれくらい売れているのかということが評価の対象になってくるんですが、最初はそういう意識が薄かったですね。おもしろそうだからこういう本を作りたいとか、納得がいくまで原稿を読んで本を仕上げたいと思っていたんですが、1冊の本だけにずっと時間をかけることもできませんし、同時進行で何冊も本を作らなければいけないので、数字を意識しながら仕事をするというのは教師時代にはなくて、最初は戸惑いました。

瀬尾ま瀬尾ゆ へー。

坂本 でも、学生時代には雲の上の存在だと思っていた先生が実際仕事をしてみたらすごく気さくな先生だったとか、学生時代に読んでいた本の先生と一緒に仕事をしたりとか、そういう経験が積み重なっていくことによって、日本語を教えていた時とは違うおもしろさが出てきて、今は楽しいなと思います。

新刊刊行後の著者との打ち上げ

瀬尾ま 日本語教育を学んだり、日本語教師として働いたりした経験が今の仕事に生かされていると感じることはありますか。

坂本 例えば、日本語教材を作る時に、自分だったら授業でどう使うかなと意識しています。著者の先生がご自身の授業ではうまくいくとお話しされた時に、他の授業でも本当にうまくいくのか、もし自分が教師としてその教材を使うなら、どんな問題があるのかを考えたりします。それから、くろしお出版では教材以外にも日本語教師用の参考書なども作っているんですが、自分がかかわった本が、現場の先生がより良い授業をするために役立ったらいいなと思いながら作っていますね。だから、自分が実際に教材を使う教師であったり読者であったりしたらどうだろうということを考えるうえで、これまでの経験が生かされているかなと思います。

瀬尾ゆ 今まで携わられた本で、特に印象に残っているものはありますか。

坂本 専門書で特に印象に残っているのは、大学院の指導教員である吉岡先生と一緒に出した『日本語教材研究の視点』ですね。これは先ほど話をした、ゼミで作成していた日本語教材リストを付録として巻末につけました。この本を2016年に吉岡先生とゼミ生を中心に作ったんですが、その2年後、吉岡先生が急逝されたんです。とてもショックでしたが、先生たちとやっていたことが最後に形に残せて、本当によかったなと思っています。学生時代につながりのあった先生たちと一緒に仕事をして、モノとして形に残るような本を作れるのはすごくありがたいなと思います。

瀬尾ま 自分のゼミでやってきたことが本になって、それに携われるというのは本当に感慨深いですね。

坂本 そうですね。教師は学習者の成長に携わることができますが、たとえばテストの点数など数字で見えるものだけが成果とは言えないですし、なかなか目に見えにくいものかと思うんです。でも、編集者は本という商品を作る仕事なので、モノとしてわかりやすく見えるものを作れるのは一つのやりがいかなと思います。ただ、本を作るにしてもやはり人がいないと作れません。学会に参加して情報収集をしたり、ネットワークを作って本づくりをしているので、結局は人と人とのつながりが必ず必要であるという点は、教育と変わりませんね。

瀬尾ゆ 吉岡先生のご本を紹介いただきましたが、それ以外にも印象深い本はありますか。

坂本 入社して初めて担当した本が、横溝紳一郎先生の『日本語教師のためのTIPS 77―クラスルーム運営』です。私の大学時代の卒論のテーマがアクション・リサーチで、横溝先生が凡人社から出されていた『日本語教師のためのアクション・リサーチ』をもとにして卒論を書いたので、お名前はもちろん知っていました。本の企画自体は私が入社する前からあって、「今から横溝先生の本を進める予定で、入社する直前まで日本語教師をやっていたあなたにぴったりだから」と言われて任せてもらったのが、この本だったんです。自分が編集者1年目で、上司に教わりながらゼロから本を編集したんですが、著者の横溝先生がすごくあたたかく付き合ってくださって、大変ではあったんですが、今思えば楽しく、著者に助けられながら最後まで刊行にこぎつけたということで印象に残っています。

瀬尾ゆ その本、私も持ってます。

坂本 ありがとうございます。これが出て10年経って、最近もまた横溝先生と『日本語教師教育学』という本を出しました。この本も雑談がきっかけで作ったんです。私が「作りませんか」と言ったことに、先生が「作りましょう」と応えてくださって。2人が一緒に作りたいと言えるような信頼関係が築けたのはうれしいですね。人とつながりながら本を次々作っている感じですね。編集って著者の先生と話し合いながら、やりとりをしながら本を作っていくんですが、次につながるような仕事ができた時はやっぱり楽しいなと思います。

これまで編集に携わった書籍の一部

「ずっと形に残っていくモノを一緒に作れるのがこの仕事の魅力」―坂本さんからのメッセージ

瀬尾ま 最後に、日本語教育を勉強したり、日本語教師をしたりしているけれども、出版社への就職にも興味を持つ人たちに向けて何かメッセージをお願いいたします。

坂本 今ふりかえると、私は人前に出て話すのが実はそんなに得意ではなかったんですよね。でも、編集者は人前に立つ仕事ではなくて、著者が形にしたいという思いに寄り添って、一緒にモノを作っていく仕事です。著者の先生と喜びを分かち合って、本が絶版にならない限りはずっと形に残っていくモノを一緒に作れるのが、この仕事の魅力だと思います。そして、人がいないと本を企画して作ることはできないので、日本語教育のネットワークに積極的に入っていかないといけません。たとえば、今どんな日本語教材が求められていて、現場の先生方はどんなことを知りたいと思っているのか。そうすると、日本語教育を俯瞰的に見られるようになるので、それもおもしろさだと思います。それから、本が出た先のこと、たとえば日本語教材だったらそれを使って学ぶ学習者がいて、参考書や専門書だったら読者に何か気づきを与えることになるかもしれない。まだ会ったことのない誰かの学びや気づきになる本を出すというのが、出版の楽しさであり、難しさだとも思います。こういったことに興味がある人には、ぜひ編集者になっていただきたいですね。

瀬尾ゆ どういう人が編集者に向いているんですか。

坂本 まず、コツコツやるのが得意な人ですね。肩こりや腰痛はありますが……(笑)。そういうのに耐えて地道にやっていくのが得意な人は編集者に向いていると思います。そして、バランス感覚のある人ですかね。一方である先生と新しい企画の話をして、もう一方では本の入稿に入らなきゃいけないというように、同時進行でいろいろな企画を進めていかなきゃいけないので、バランス感覚がある人は向いていると思います。でも、結局は情熱がないと続かないと思いますので、日本語教育の本を世に出したいという強い気持ちも必要になってきますね。

インタビューを終えて

瀬尾ま
日本語教師になるという明確な目標に向かって努力をされていた坂本さんですが、青年海外協力隊の派遣を断念されたり、非常勤で日本語教師を続けていくことに難しさを感じられたりしていました。坂本さんは今の仕事に辿りつき、日本語教育にかかわり続けることができていらっしゃいます。このように必ずしも教師でなくても、日本語教育を学んだ先にはいろいろな選択肢があるということを、『日本語教師の履歴書』ではもっとお伝えできればと思いました。

瀬尾ゆ
日本語教育を俯瞰的に見たり、本が出た先の将来にまで思いを巡らす編集者は、本という「モノ」を通して日本語教育の世界を育てるお仕事なのですね。そんな素敵なお仕事を見つけられた坂本さんですが、以前は日本語教師を続けることの難しさも感じていらっしゃったようです。この点は、日本語教育の大きな課題として真摯に受け止めなければならないと思います。

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