日本語教師の履歴書 vol.21 内島弘太さん


vol.21 「学生や隊員一人ひとりに合わせる、成長を支える、意見を聞きながらベストアンサーを探し続ける」内島弘太さん

今回は、一般社団法人協力隊を育てる会にお勤めの内島弘太さんです。今から約1年前、内島さんがパラグアイから戻られたばかりの2021年8月16日にZOOMでお話をうかがいました。途中からパートナーの朋子さんもインタビューに参加してくださいました。


《今回の「日本語教師」》 内島弘太(うちしま・こうた)さん 大学卒業後、日本語教師養成講座420時間コースを修了。翌年より約3年間、都内の日本語学校で非常勤講師として勤務。その後、JICA日系社会青年ボランティア(現:JICA海外協力隊)としてドミニカ共和国に2年1ヵ月派遣され、中南米日系社会における日系人子弟への日本語教育や現地教師の育成に携わった。帰国後、一般社団法人協力隊を育てる会に入社し、主に海外協力隊の帰国後支援を担当した。2019年7月より休職し、JICA企画調査員(ボランティア事業)としてパラグアイ共和国で海外協力隊の事業運営に従事した。2021年8月より現職に復職。


「南米に行ってやってみたい、南米で恩返しがしたい」

―ボランティア、日本語学校での非常勤講師を経て青年海外協力隊へ

瀬尾ま 日本語教育に足を踏み入れたきっかけは何だったんですか。

内島 2003年に大学に入学してスペイン語を専攻しました。それで、スペイン語を話せる場所を探していたんです。私は神奈川県に住んでいて、横浜市の港北区の国際交流ラウンジに行けば外国人がいるだろうと思って、行ったんですね。そこで初めて日本語教育が行われているのを見ました。そこのセンターの人に「手伝ってくれないか」と言われ、大学時代の2年半ぐらいそこでボランティアで日本語を教えていました。それが最初の日本語教育との出会いです。
さらに大学在学中に、ペルーやブラジルの日系の子供たちに日本語や教科学習の支援をするボランティアをして、そこから日系の人たちへの日本語教育に興味を持つようになりました。

瀬尾ゆ 最初はスペイン語を話そうと思って国際交流ラウンジに行ったら、「日本語を教える手伝いをしてくれ」と言われたんですね。実際にやってみて、どうでしたか。

内島 まだ日本語教育について専門的な勉強をする前だったんですけれど、日本語を外国語として教えるのが本当に新鮮で、すごくおもしろかったです。もともと語学自体は好きだったので、語学を教えるのもなかなかおもしろいなと思いました。それで、進路を考えるにあたって日本語教師になってみようかなと考え始め、大学を卒業してすぐに420時間の日本語教師養成講座に1年間通いました。

瀬尾ま 1年間フルタイムでということですか。

内島 はい。アルバイトをしながら講座に通いました。その後、2008年4月に養成講座を受講した学校で非常勤講師として採用していただきました。

瀬尾ま いきなり専任というのは、やっぱり難しいんですか。

内島 まずは非常勤で入って経験を何年か積んで専任になられる方が多かったですし、私もそういうつもりで最初は入ったかなと思います。

瀬尾ま 非常勤でやっていくときって不安はなかったですか。

内島 周りからは経済的に厳しいというのは言われましたし、すごく止められたりもしたんですが、1回やってみようと思って始めましたね。最初は週に何コマかしか持たせてもらえなくて、大学の頃からやっていたコーヒー屋のアルバイトをしながら日本語教師をやっていました。

瀬尾ま 海外にはいつ行かれたんですか。

内島 2008年から2011年3月までの3年ぐらいは、日本語学校で非常勤講師として働いていました。その間にJICAの日系社会青年海外協力隊に申し込んで、2011年7月からドミニカ共和国に派遣されました。

日系移住地での授業風景(ドミニカ共和国)

瀬尾ゆ 日系社会青年海外協力隊というのは、その頃から頭にあったんですか。

内島 はい。大学時代に在日日系の子供たちに対してボランティアをしたときのインパクトが残っていたんです。当時は専門知識がなくて、うまくいかないことも何度かあったので、日本語教師の専門知識を身につけたあと、2、3年したらその子たちがいる南米に行ってやってみたい、南米で恩返しがしたいっていう気持ちがそのときからありました。

瀬尾ゆ 日系のボランティアは、どの辺にインパクトがあったんですか。

内島 まず、本当に学校で苦労しているんだなって思ったのが1つです。そして、親のほうが日本語が話せないんですよね。子供は日本の学校に行っているので、日本語を覚えちゃう。でも、お母さんやお父さんは日本語ができなくて、子供も両親の母語ができなくなっちゃって、そのことが原因で問題を抱えている家庭が非常に多いんですよ。それに対して何かできないかなと思っていたんです。かれらの本国に行くことで、何ができるかわかるかなと考えていました。

瀬尾ま ドミニカではどのような仕事をされていたんですか。

内島 海外に移住した日本人や日系人の子弟に対して、日本文化や日本語を教える、継承日本語教育を目的に行きました。

瀬尾ゆ どういう機関で働かれていたんですか。

内島 私が配属されたのはドミニカ日系人協会という現地に移住された方々が作った法人団体が運営する日本語学校でした。子供たちは月曜日から金曜日までドミニカの現地の学校に行って勉強して、土曜日にその日本語学校に来るという形でした。なので、平日は教務的なことをしたり教材開発をしたりして過ごして、土曜日は朝から夕方までずっと授業をするようなスタイルでしたね。

瀬尾ゆ どんなふうに教えていたんですか。

内島 土曜日は基本的には1日中日本語を教えるんですが、子供たちの祖先がどうやってドミニカに来たのかなど、移住に関する学習なども取り入れていました。

瀬尾ま 養成講座でも日本語学校でも、日本で教えること、成人の学習者に教えることに特化して勉強や経験を積まれていたと思うんですが、ドミニカに行って戸惑うことはありませんでしたか。

内島 日本で留学生を教えていた頃とは学習者の年齢も教える目的も異なるので、小学校の先生をやっておけばよかったなと思いましたね(笑)。ただ、「ザ・協力隊」で、やりながら現地で学ぶみたいな感じで慣れていきました。一方で、日本で非常勤をしていた3年間での教務経験がドミニカでカリキュラムを立てるのに役立ったので、経験ゼロで行かなくてよかったなとは思いました。

瀬尾ゆ 内島さん以外には、どんな先生がいらっしゃったんですか。

内島 一般的に協力隊は1つの配属先に1人しかいなんですけど、ドミニカには非常に手厚く協力隊員を派遣していて、私を含めて4人派遣されていました。さらに現地の先生が3〜4人ぐらいですかね。私が行ったところはドミニカの首都サントドミンゴにある学校で、生徒60人ぐらいを6学年に分けて、先生1人が1学年を見ていました。

日系移住地での日本文化体験(ドミニカ共和国)

瀬尾ま ドミニカには何年いらっしゃったんですか。

内島 2年です。1年目は先ほど言ったように平日は準備、土曜日に週1回授業という形で働いていて、2年目は場所が移動になりました。ドミニカにも移住地と呼ばれる日系人が固まって住んでいる集落が数か所あって、各移住地に小さい日本語学校があるんです。そこの先生が不足しているということで、首都からちょっと離れた北の町に住んで、そこからバスで月曜日はA校、火曜日はB校というように、旅人みたいに毎日巡回するような形で授業をしていました。

瀬尾ま そっちの日本語学校は平日に授業をされるんですね。

内島 本当は土曜日にしたいんでしょうけどね。でも、先生がいなくて私たち協力隊が行くことになると、割り振りを決めなければいけないので、平日の昼間にやっていました。中南米の学校は日本の学校のように朝から夕方までという時間割ではなくて、午前に勉強する子、午後に勉強する子というように午前午後の2部制なので、日本語の授業は平日の午後にしていました。

瀬尾ゆ さきほど子供を教えるのは大変だったということでしたが、どのような感じで教えられていたんですか。

内島 2年目だと、その地区にいる子がどんと集まってくるので、複式学級の形で行いました。年上の子たちに手伝ってもらいながら、例えば、6年生の子に1年生を教えてもらうとか、そういった工夫をしながらやっていました。

瀬尾ま 子供たちのやる気はどうでしたか。

内島 正直、やる気が低い子が多かったです。高校生ぐらいになってくると、日本とのつながりを感じ始めて、もう少し日本語をやってみたいとか、奨学金を取って日本で勉強したいとか、そういう具体的な目標を持てる子も増えてくるんですけど、どうしても親に行かされている感じの子は多かったですね。

瀬尾ゆ 学校自体は、日系社会の中で日本文化や日本語を引き継いでいくという目的で設立されていたわけですか。

内島 おっしゃる通りです。日系社会の日本語学校って、昔は影響力がすごく大きかったみたいで、日系人は移住した先でまず日本語学校を建てるという言葉があるぐらい、日本語学校が日系社会の中心になっていたそうなんです。日本語を勉強しながら農業もやるというような形で移住地を作ってきたところが多いみたいですね。ただ、上の世代はそういった歴史や日本語、日本文化を残して伝えていきたいと思っているようですが、今の子供たちはそういう想いとは関係なく、日本をアニメ文化などで捉えていて……。どちらが良い悪いではないのですが、世代間のギャップを感じました。ただ、日本語を学ぶ場として日本語学校というハードがあるので、先代が残してきた意味はすごくあると思います。

瀬尾ゆ さきほど南米で恩返しがしたかったとおっしゃっていましたが、その辺はできましたか。

内島 うーん、できたのかな? 恩返しできたかなという部分もありますが、ドミニカに行って自分自身が教えられることがすごく多かったので、南米で教えられたことをまた次に違う形で何かできないかなと考えるようになったかなと思います。

 

「人の成長に関係する仕事をしたい」

―協力隊を育てる会、パラグアイでのJICA企画調査員の仕事

瀬尾ま ドミニカから戻ってからは、どうされたんですか。

内島 ドミニカでの任期が終わって、2013年に日本に帰りました。協力隊で派遣されているときに、日本語教師を続けるかどうかをすごく悩んでいました。

瀬尾ま どのようなことで悩まれていたんですか。

内島 日本語教師を日本で3年、ドミニカで2年して、自分にすごく向いているのかなとも思ったんですけど、もう少し外国語を使って何かをしたいという気持ちが自分の中にあったんだなということに協力隊時代に気づき始めて……。そして、誰かの成長に役立つことがしたい、人の成長に関係する仕事をしたいと思うようになったんですね。それを見つめていった結果、日本語教師じゃなくてもいいのかなって思って、結局、今私がいる一般社団法人協力隊を育てる会という、青年海外協力隊を支援する団体に勤めることにしました。

瀬尾ま 今のお仕事って、どういう仕事なんですか。

内島 2013年に日本に帰ってから5年くらい、日本に帰国した協力隊員の支援をする仕事をしていました。私は、協力隊員が現地で得てきた経験は日本社会にも必要なものだと思っているんです。単純に外国語ができるという理由だけではなくて、文化も言語もまったく違うコミュニティで周りの人を巻き込みながら環境を作って何かを為すっていうことが、日本でも役に立つと思うんです。例えば、日本人ばかりのコミュニティの中で悶々としている外国の方も多くいらっしゃると思います。そこに協力隊員だった人がいることで、かれらの気持ちを少しわかってあげて、日本人コミュニティとのつなぎ目役になることができると思うんです。私は、協力隊員のそういうところが非常にいいなと思っているので、日本でそういった人材をほしがっている方と実際に協力隊に行ってきた方をつなげるような仕事を、日本に帰国してからやっていました。

瀬尾ま 基本的に日本国内で働くという感じなんですか。

内島 そうでしたね。でも、スペイン語を使う仕事に戻りたいというのがずっとありましたし、誰かの成長に役立つことをその人の近くでしたいと思っていたので、パラグアイでのJICAの企画調査員の仕事を3回受けて、3回目に受かって2019年7月から2年間行きました。

瀬尾ま 社団法人のお仕事を退職して、行かれたんですか。

内島 無給休職という形でお休みにさせていただき、社団法人に所属したままで行きました。

瀬尾ゆ 企画調査員の仕事は、今までの経験で求められていたものとは変わったように感じられましたか。

内島 日本語教師の仕事とは全然違っているんですけど、大人数に対して何かを働きかけるところは共通していて、その経験は役に立ったことが多かったかな。あとは、企画調査員の仕事は、相手国の方々と協力隊の派遣を調整したり、協力隊員の住居を探してきたり、彼らを派遣国の現場で支援するんですが、それは日本語教師の担任の仕事にも近いところがあって、共通する点はありましたね。

瀬尾ゆ どういうところが共通していましたか。

内島 例えば日本語教師のときは、「この子はちょっと繊細だから少し対応を変えようかな」とか、「こっちの子はもう少し放任主義でやらせてあげたほうがうまくいくのかな」というような感じで学生に接していましたが、企画調査員になってからも協力隊員に同じような感じで接していました。一人ひとりを見て対応を変えるとか、タイプに合わせて柔軟にするというのは日本語教師とすごく共通する点でしたね。日本語学校で卒業生を見送るときと、隊員が2年間の任期を終えて帰国するのを見送るときは、人間としての成長をすごく感じて、それは変わらないなと思いました。

瀬尾ま 企画調査員が協力隊の仕事を見つけてくるというお話がありましたが、企画調査員が現地での仕事を受注してくるんですか。

内島 協力隊には保健・医療や農林水産、人的資源などいろんな分野があるんです。企画調査員は現地政府とお話をして、例えば、「農業の研究所にイネの栽培を専門にやっている人があまりいない」と言われると、現場でヒヤリングをして、どういう人材がほしいか、何をやってほしいか、現地のリソースとしてはこういう人がいますというのを聞いて、それをまとめて要請内容を作成するんです。そして、それを日本のJICA本部に送って、本部で募集をかけて、協力隊を現地に派遣します。そして、実際に協力隊員が派遣されてきたときには、住居の手配、家賃の調整、契約などをしたりして活動のフォローをします。

瀬尾ま 現地の言葉ができないと、なかなか難しそうですね。

内島 そうですね。でも、会う人や話すことの幅が大きいのはおもしろかったですよ。JICAの人間として政府高官の人と会うときもあれば、田舎の村の大家さんに「水道代はもうちょっとまけてくれないか?」と交渉することもあるのは、おもしろかったところですね。

瀬尾ゆ ご家族と一緒に行かれたとお聞きしましたが。

内島 はい。2017年に子供が生まれて、まず私が1人で2019年7月に赴任しました。その2か月後に、当時もうすぐ2歳になる子供と嫁さんがパラグアイに来ました。結婚するときに、お互いに単身赴任は嫌だと言っていて、うちの嫁さんも元協力隊員で海外に出たいという感じの人なので、海外についてきてほしい、ついて行くというのは結婚したときのお互いの約束でもあったので(笑)。

瀬尾ま 小さなお子さんを海外に連れて行くのは、不安ではなかったですか。

内島 不安はありましたし、その辺は妻がすごいフォローをしてくれました。まず心配だったのは、医療事情ですかね。医療レベルがどうしても日本より下がるので、何かあったときの不安はあるなと思いました。あとは治安の問題。パラグアイは比較的安全な国だとは言われているんですけれども、それでも日本のように外を自由には出歩けないので、その辺のストレスがたまるかなという不安はありました。

瀬尾ゆ お子さんはずっとご家庭で見られていたんですか。

内島 まず私が1人で行って生活基盤を整えてから家族を呼び寄せたつもりだったんですけど、私も企画調査員の仕事は初めてだったので、自分のことでいっぱいいっぱいで余裕がなく……。毎晩残業で、最初の2か月ぐらいは何もせずに家にいさせてしまいました。そうすると、やっぱりストレスで嫁さんがちょっとおかしくなる手前ぐらいだったので、ベビーシッターを探して、その後保育園も探して保育園に行かせました。

瀬尾ゆ 現地の保育園ですか。

内島 ええ。「現地のほうが楽しそうじゃない?」という妻の意見もあったので、現地の保育園に入れました。週2、3日保育園で、週2日ベビーシッターを呼んでっていう感じでやっていました。

瀬尾ま 奥さまも元協力隊員でご理解があるということでしたけれど、実際に行ってみてどうだったんでしょうか。

内島 どうだったんですかね。ドアの向こうにいるんで、ちょっと聞いてみますか。

家族と休暇中の旅行(パラグアイ)

「子供の幼少期に、そういうところで過ごせたのはよかった」

―パラグアイで家族と生活する

瀬尾ま 小さいお子さんを連れてご家族でパラグアイに行かれたそうですが、奥さまはパラグアイの生活はどうでしたか。

朋子 時差が大きくて、子供が適応するのにすごく時間がかかって、最初はすごく大変でした。夜中も泣くし、朝起きても泣くし、環境に慣れなくて1日に何回も吐くし……。それで私も神経が参ってしまって、とにかく最初はかなり大変でしたね。

内島 俺も日中は家にいないしね。

朋子 そうなの。私も南米が初めてだったし、知り合いもいないし……。後々にはお子さんがいらっしゃる現地駐在の奥さんとお友達になれたんですけど、最初は頼れる人もいなくてすごく大変だったのを覚えています。

瀬尾ゆ 小さい子はすぐ適応するのかなと思ったんですけど、それだけ環境が違うってことなんですかね。

朋子 そうですね。今回コロナで長く一時帰国して、もう1回パラグアイに行ったときはもう3歳になっていて、その時はすぐに適応したんですよね。2歳前後というのが子育てでも本当に大変な時期で……。

瀬尾ゆ そうですよね。

朋子 ただ、よかった面としては、パラグアイの人が子供にすごく優しくて、「オラ」とか「コモエスタス」とか、ご挨拶してくれるんです。子供もそれに慣れて、通りすがりの人に誰にでも「オラ」と言うようになって、積極的に自分から挨拶できるようになったのは、パラグアイの人の温かさとか、子供への優しさとか、そういった環境の中で育ったからだと思います。

瀬尾ま瀬尾ゆ へー。

朋子 あと、パラグアイは移民が多い国なので、いろんな外見の人がいるんです。子どもはまだよくわかってはいないかもしれないですけど、幼少期の一定の期間、そういうところで過ごせたのはよかったのかなと後から思っています

瀬尾ま 海外に子供を連れていくことに抵抗は特になかったですか。

朋子 逆に海外で子育てをずっとしてみたかったんですよ。個人的には子供の言語習得に興味があるので。本当は子供の第二言語習得の過程をもうちょっと観察したかったんですけれど、ようやく喋れるようになりだしたところでコロナで帰国になっちゃって……。今回それがあまりできなかったのが残念ですね。

瀬尾ゆ 将来またお子さんを連れて海外に行こうと考えていらっしゃったりするんですか。

内島 そうですね。小学校低学年ぐらいまでは連れていっても大丈夫かなっていう気はしていますかね。今回の仕事もコロナで実質は1年3か月ぐらいだったんで、もう少し仕事を覚えたいというのもありますし、経験としてはもう1回ぐらい行きたいなと思っています。

瀬尾ま (2021年)9月からはどうされるんですか。

内島 まだ調整中なんですが、社団法人に復職するために東京都内に戻る予定です。妻も9月からは都内で働く予定です。

 

「周りの違う文化を否定せず、受け入れられなくても拒絶しない」

―内島さんからのメッセージ

瀬尾ゆ 協力隊の日本語教師には、どんな人が向いているんでしょうか。

内島 そうですね。自分で物事を進めていくリーダーシップが取れる人、かつ、周りの意見を聞ける人ですかね。周りの違う文化の中でも、それを否定せず、自分が受け入れられなくても拒絶しないような感覚を持っている人だと、海外の学校、特に協力隊ではうまくやっていけるのかなと思います。必ずしも自分が100点じゃないので、そういう感覚を持っている人が特に向いているかな。

瀬尾ゆ 内島さんが日本語教師をされていたときもそうでしたか。

内島 日系の場合、親と子どもの思いにギャップがあったりして、いろんな方々のいろんな意見を聞きながら日本語を教えなきゃいけなかったんです。だから、いろんな人の話を聞いて、その中で最適解を探していこうとしていましたね。100点じゃないけど、70点、80点ぐらいのみんなができるだけ納得のできる答えを探していくことを目指していました。
日本で教える場合も、どうしてその人が日本に来て、その後何をやりたいと考えているのかに、もう少し目を向けてあげてほしいなと思います。そして、もし機会があれば、日本以外の国にも興味を持って、学生たちの国に興味を持って日本語教師を続けていただけたらうれしいなと思います。

 

インタビューを終えて

瀬尾ま 恥ずかしながら、JICA企画調査員のお仕事についてこれまで知らなかったもので、内島さんのお話を聞いて、大変そうではありますが、すごくおもしろそうな仕事だと感じました。また、青年海外協力隊に参加した隊員が帰国後にその経験をその後のキャリアに生かせるように支援する団体があるということも知らず……。自分が大学生の頃にこんなことを知っていたら、青年海外協力隊に行ったかもしれないなと思いを馳せました。

瀬尾ゆ 日本国内の日本語教師養成機関では、海外で行われている継承日本語教育について学ぶ機会はあまりないかと思います。内島さんのドミニカ共和国でのお話を聞き、日本語教育の幅広さを改めて感じました。それから、『移動する女性たち――海外の日本語教育と国際ボランティアの周辺』(平畑奈美、2019年、春風社)という本に、青年海外協力隊での経験が日本社会で十分認めてもらえていないと書かれていたのを思い出しました。内島さんは、まさにここに働きかけていくお仕事を今されているんだなと思いました。

 

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