vol.1 神吉宇一さん


制度を整える、社会に発信する、新しい仕事を作る

初回は、日本語教育学会副会長で、業界の動向にも詳しい神吉宇一さんです。静岡県沼津市で行われた日本語教育学会秋季大会中の2018年11月25日にインタビューをしました。副会長のお仕事でお忙しいなかでのインタビューでしたが、1時間半にわたって熱く語っていただきました。


《今回の「日本語教師」》神吉宇一(かみよし・ういち)さん 武蔵野大学准教授。学校教員、打ち上げ花火業、葬儀業、広告代理店等、正規・非正規30以上の職を経験し、大学教員となる。前々職では政府系財団職員として政策案件の企画立案や企業向け日本語教育プログラムの開発、マネジメント等に携わった。最近の興味関心は、言語教育に関するクリティカルアプローチのありかた、日本国内の地域日本語教育と地域づくりの関連等。主著に『日本語教育学のデザイン』 (編著)、『未来を創ることばの教育をめざして:批判的内容重視の言語教育(Critical Content-Based Instruction) の理論と実践』(共編著)。公益社団法人日本語教育学会副会長。


「海外に行きたい、外国に住みたい」
-小学校の先生をやめて、日本語教育の道

瀬尾ゆ 神吉さんはどうして日本語教師になられたんですか。

神吉 すごく単純な理由なんだけど、もともと小学校の先生をやっていて、ずっと海外に行きたい、外国に住みたいって思ってました。僕は国語科を専門にしていたから日本語の先生なんて明日にでもなれるよぐらいに思って、学校の先生を辞めたんですよ。実際はそれから日本語教師になるまでにすごい勉強しなきゃいけなかったんですけど。

瀬尾ま その時はもう結婚されていたんですか。

神吉 してました。

瀬尾ま 学校の専任の先生は経済的には安定していたと思うんですけど、それを辞めて、「俺は海外に出たいから日本語教師になりたいんだよ」って言ったときの、ご家族の反対ってありませんでしたか。

神吉 なかったですね。妻は、「わかった。その代わり、それで生活に困るようなことがないようにちゃんと責任を持ってやってくれ」と。「私が反対したからできなかったなんて一生言われるのはかなわないから、私は反対しません」と。

瀬尾ま 日本語教師ってマイナーな仕事じゃないですか。その時、海外に出るために日本語教師になろうっていうのはどういうふうにつながったんですか。日本語教師の仕事をご存じだったんですか。

神吉 知らなかったです。教員になって3年目に、近くの大学から留学生が学校を見学したいっていう依頼が来たんです。僕は面白そうだなと思って、「いいよ、いっぱい来ていい」とか言って、受け入れて。そのときに日本語の先生っていう人が引率で来たんですね。それで、そんな仕事があるんだと思って、初めて知りました。それでちょっと興味を持って調べたら、日本語教育能力検定試験っていうのがあるらしい、受けてみようと思って、受けてみました。もちろん落ちましたけど(笑)。まったく勉強しなかったから、問題の意味がわかんない。テンスとアスペクトって、「何それ?」みたいな。

瀬尾ま 国語の先生だからできるだろうと思ったら。

神吉 そう! できると思った(笑)。だから本当になめてますよね。問題集すら見ていかなかったから。で、いろいろと調べたら、仕事としてやるんだったら大学院に行っておいたほうがいいっていうのを聞いて、じゃあ大学院に行こうかと思って。で、大学院に行くためには勉強しなきゃいけないから、1年間母校だった東京学芸大に通うことにしました。

瀬尾ま 修士は学芸大で?

神吉 いや、学芸大で研究生をやって。で、修士でどこかに行かなきゃいけないから順番に入試を受けようと思ったんです。で、阪大言文(大阪大学言語文化研究科)の夏試験っていうのが全国で一番早い、7月だったんです。早く決まると嬉しいじゃないですか、行くところがあるから。しかも僕は英語が当時まったくできなかった。阪大言文は当時は英語の試験がなかったから、「これしかねえ」って思って。それで受けたら受かったから、もうここっていうことになりましたね。

「生きていけるんなら別にいいんじゃない」
-いろいろなアルバイトを経験する

瀬尾ま 大学院生の頃に非常勤講師をされていたと思うんですが、非常勤の頃って、この先どうなるんだろうとか、不安とかもあると思うんですけど、そういう気持ちは特になかったですか。

神吉 なかったですね。まったくなかった。

瀬尾ま なぜなんですか。

神吉 それは教員を辞めるときも思ったんだけど、不安って多分収入がなくなって食べていけないっていう不安だと思うのね。でも、今の日本で飢えて死ぬって難しいよなって僕は思ったんです。仕事はなんでもしようと思ってたし、そうしていたら食べられなくて死んじゃうみたいに貧乏になることは多分ないだろうから、生きていけるんなら別にいいんじゃないって思ってたっていうのがあるかな。だから全然不安はなかったですよ。楽しいし。あと、自分で選んでるっていうところがやっぱり好きだったかな。

瀬尾ま なるほど。確かに。

神吉 僕、修士の1年のときに上の子どもが生まれたんですけど。で、幼稚園に入るとパパ友ができて、あるとき、みんな何時頃に家に帰ってくるかっていう話になったんです。僕は当時非常勤の仕事を昼間にやって終わりだから、「大体夕方ですね」って答えたの。でも、みんなは「早くて夜の9時、いつもは12時」とかって言うからびっくりして。当時は「子どもといつも一緒にいられるし、家族で一緒にいられる時間っていうのが十分取れるから、今の状況もありだな」と。むしろ「この生活いいよ。みんなが寝た後帰ってきて、何のために仕事してんのかわかんないじゃん」って思ったんですね。それは、今みたいに仕事自体にものすごく深いやりがいを感じてなかったっていうのもあったからだと思うんですけど。

瀬尾ゆ いろいろな仕事をされていたのもその時ですか。

神吉 うん。家族を養わなきゃいけないけど、非常勤の日本語教師の仕事もそんなにいっぱいあるわけでもないし、大学院の授業の隙間でバイトをするっていうことでいろいろやりました。簡単なところだと(チラシをポストに入れて回る)ポスティングとか、(駅でティッシュを配ったりする)ハンディングとか。ポスティングもいろいろあって、普通のチラシだと安いんだけど、1回選挙公報をやったことがあって。普通、ポスティングは1枚1円とか2円とかなんですよ。でも、選挙公報は1枚20円ぐらいもらえる。大体5000部ぐらい配るから、全部配ると10万円なんですよ。

瀬尾ゆ すごいですね。

瀬尾ま 大学院に行ってるときは関係ない仕事もやりつつ。

神吉 いっぱいやりました。

瀬尾ゆ どちらかというと生活のためで。

神吉 うん。だけど、アルバイトでいろいろやることが面白かったっていうのもある。教員の世界の狭さじゃないんだけど、もっといろんな仕事があるから、機会があるんだったらいろいろやってみたいってずっと思ってました。ちょうど、そんなアルバイトせざるを得ない状況なんだから、だったらいろいろやってみようって思って。

それで、最初に変な、珍しいバイトを見つけようと思って、最初にやったのはスポーツ大会の警備員と葬儀屋なんですよ。スポーツ大会の警備員は、試合が見られるからいいなと思ったら全然見られない。客のほうを向いてなきゃいけないから、こう後ろを向いてチラチラと試合を見る感じ(笑)。

「今やってる仕事は主に5つあります」
-神吉さんの今の仕事

神吉 今やってる仕事は主には5つあって、大学の教員、アドバイザー、委員会の委員、学会の仕事、あとは依頼された講演活動などがあります。

大学の仕事としては、僕はグローバル学部日本語コミュニケーション学科の所属なので、日本語教師になりたいとか、日本語教育に興味があるっていう学生に対しての教師養成に携わっています。また、大学院もやってるんで、まさに日本語教師養成、研究者養成っていうことをやってますね。

次に、アドバイザーですね。教育系の企業、ベネッセグループの(株)ラーンズっていう会社でアドバイザーをやってます。そこが日本語教育事業をやってるので、その日本語教育事業の方向性だとか、具体的な事業の中身について相談を受けてアドバイスをしたり、こちらから何か提案したり、実際に事業が動き始めたときには具体的にいろんなことをやっていったり。

瀬尾ゆ アドバイジング?

神吉 僕はアドバイザーっていう肩書を全部で5つ持ってて、このラーンズの日本語教育アドバイザーと文化庁の地域日本語教育アドバイザー、カイ日本語スクールのアカデミックアドバイザー、北九州国際交流協会のアドバイザー、EDAS(イーダス)っていう団体のアドバイザー。

文化庁の地域日本語教育アドバイザーっていうのは、文化庁が空白地域っていわれる、日本語教室が一つもない自治体に日本語教室を新しく立ち上げるための支援をする事業があるんですけど、それのアドバイザーをやっています。今、僕は鹿児島県の長島町の案件に携わっていて、長島町が日本語教室を作ってそれを運営していくなかで相談に乗ったり、実際に現地に行って現場を見たりっていうことをやってますね。

それから、EDASのアドバイザーなんだけど、EDASっていうのは外国人の受け入れに関していろんな仕事をしてる人たちがボランティアベースで集まって、『来た時よりも、もっと日本を好きに。』っていうコンセプトで、外国人がせっかく日本に来るんだから日本を好きになって帰ってほしいよねっていうので、いろんな取り組みをしようとしてる団体で、そこの日本語教育アドバイザーっていう仕事をやってます。

それから、委員の仕事。委員の仕事っていうのはたくさんあって、比較的長く続けてるのが、文化審議会国語分科会日本語教育小委員会の委員で、これは今5年目ですね。文化審議会国語分科会日本語教育小委員会っていうのは、国の日本語教育政策について提案をしていくという役割がありますので、今だと日本語教師の資格の議論ですね。日本語教師の資格がそもそも必要なのか、必要だとしたらどういう人たちをその資格対象とするのか、どうやって資格を作るのか、その資格を取るためにどんなハードルを設けるのかみたいなことを、そもそも資格が必要なのかっていう根本的なところから議論し始めてるところです。それから、委員の仕事は他にもいっぱいあって、いくつあるんだっけな。

瀬尾ゆ そんなにたくさん。

神吉 文部科学省の留学生就職促進プログラムっていうのがあって、全国の12大学が採択されています。留学生が日本企業に就職できるように就職支援活動を大学として充実させるという目的で行われていて、僕はそれの専門委員というのをやっています。そこでは、12大学の取り組みについて相談に乗ったりとか、現場に行っていろんなものを見たりしてコメントしたりとか、評価委員会に外部評価者として参加するみたいなことをしてますね。

それから、(一財)日本語教育振興協会(日振協)という日本語学校の団体がありますけれども、そこで主任研修委員をやっています。日振協では日本語学校の主任に対して研修を毎年1回やってるんですけれども、その主任研修の企画を考えたり、実際に主任研修の場に行っていろいろとお手伝いをしたり、場合によっては講師をしたりっていうようなことをやってますね。

あと、今年度だと、文化庁が昨年度、日本語教育人材の養成研修について報告書を出しましたけれども、その報告書で提案されている日本語教育人材の育成モデルを検証するっていう事業が今あるんですけれども、外部委員として長野県が受けている事業の委員をやってますね。

それから、(一財)日本国際協力センター(JICE)ですね。JICEさんは厚生労働省がやっている外国人就労・定着支援研修というのがありまして、もともとは日系人がリーマンショックで仕事がなくなったときに、その日系人の就労を促進するために始まったものなんですけど、今は外国人全般が対象になっていて、その事業について相談に乗ったり、その事業で今教材開発をしてるので、その教材に対してのコメントとかをやってます。

瀬尾ゆ 忙しいですね。

神吉 委員会の仕事は多分そんなもんだと思う。次は学会の仕事。(公社)日本語教育学会の副会長としては、業務執行理事ということで運営全般にもちろん携わっていますけど、僕は特に総務担当っていうことで、会員関係とかホームページ情報発信系とか、学会の運営そのものについてのことをいろいろ整備するっていうような仕事をしています。それから、学会の政策提言に関する仕事とかも。

瀬尾ゆ それって具体的にどんな仕事なんですか。

神吉 会員関係だと、こういう大会だと賛助会員ブースっていうのがあるんですけど、賛助会員ブースの仕切りですね。あの企画を考えて、それをどんなふうに動かしていくかっていうこと。実際には事務局がいろいろ動いてくれるんですけれども、都度相談が来ますので、相談を受けて、最後にこれでゴーっていう承認ですね。そういうことをやってますね。

あとは、外の非常勤があるのか。非常勤は日本語教師養成講座を2つやってる。

瀬尾ゆ あとは講演とか。

神吉 そうですね。講演は月に2回ぐらいかな。最近は地域のボランティア向けの研修っていうのが多いんですけど、もう来年度からはそれは基本的に断ろうかなと。

瀬尾ゆ やっぱりお忙しいから?

神吉 それもあるし、地域のボランティア研修を僕がやって、その地域が本当に良くなってる感覚がない。地域のボランティア研修って、例えば経年で育成モデルがちゃんとあって、1年の中でどういうコンセプトで、どんな順番で学んでいってもらうか設計されてるかっていうと、そうでもないんだよね。で、有名な人、または話が面白い人を呼んで「なんかしゃべってください」みたいなのが多いので、それをやる余裕は僕は今なくなってきた。代わりに、もうちょっとものを書いて発信するみたいなことをやっていこうかなというふうに。それで研修に来る人、日本語教育に興味を持っている人だけじゃなく、日本語教育のことを知らない人、興味がないような人も含めて、広く社会に発信して味方を増やしていく必要があるかなと今は思っています。

「日々の授業をどうするかではなくて、もう一段上から日本語教育のことを考える機会が多かった」
―AOTSで培った、本質を見るチカラ

瀬尾ま 昔からこんな量の仕事をしているんですか。それとも、最近ぐわっと仕事が増えてるんですか。

神吉 仕事量は、やっぱここのところ急激に増えてますね。

瀬尾ま 何がきっかけで増えていったんですか。

神吉 今は政策が動いていて、その関連のものがいろいろあるのと、学会の副会長も結構仕事としては重いし。

瀬尾ま 先ほどおっしゃっていた委員の仕事は舞い込んでくるんですか。それとも自分から仕事を取りに行くんですか。

神吉 基本的には舞い込んできますね。そもそも僕が日本語教育の業界で露出が多くなってきたっていうのは2007年以降なんですね。2007年に大学院を単位取得満期退学して、AOTSに入ったんですけれども、AOTSの当時の上司、春原憲一郎さんは露出の多い人で、彼に仕事が来る、それを僕に振るっていうことをずっとやってたわけです。やってくれてたというのか、やらされてるかよくわかんないですけど、仕事が自分に降ってくるわけです。そこからだんだん仕事が増えていくっていうのが最初のパターンでした。

例えば、日本語教育学会に当時は教師研修委員っていうのがあったんですけど、そこでまず仕事をします。そうすると、そこで知り合った人たちから今度は新しい仕事がまた来るっていうふうにして、徐々に増えていく感じはありましたね。

役所系の仕事はやっぱり文化庁の、さっき言った小委員会の仕事、これが結構大きくて、この人は文化庁が仕事を進めていく上で政策的な仕事の後押しをしてくれそうだとか、相談できそうだってなったときに、仕事が舞い込んでくるようになります。例えば、各省庁が日本語教育の政策を作るときに文化庁に「誰か専門家を紹介してくれ」と頼むわけです。その紹介で僕にヒアリングの依頼が来たりとかっていう、そんな感じかな。

瀬尾ま 文化庁に入っていったのはどういうタイミングなんですか。

神吉 あれはなんでだっけ。委員の任期が10年で、少しずつ入れ替わるので、その日本語教育系の中で当時若手、といっても40代だけど、40代前半で入ってもらえないかっていう。

AOTSに入ったっていうのはすごく大きくて、AOTSの仕事っていうのは日本語教育に関する事業のマネジメントの仕事なんですね。専門職として専門性を生かしながら、この事業全体がうまく流れていくようにするわけですけれども、日本語教師の教師としての力量とか能力っていうのは基本的には問われないわけですね。日本語教育に対する専門性は必要なんだけれども、教師としてのティーチングのうまさであったりとか、教材を作るとか、学習活動を考えるとかっていうのはあまり必要なくて。人をどう動かすかとか、事業目的を踏まえて事業全体としてどうやるかとかが必要だったんです。例えば、企業から日本語教育をやってほしいという依頼が来たときに、企業にわかりやすくその効果を説明したりとか、そういうことが多い仕事だったんですね。

それでAOTSの理事長や所管官庁であった経済産業省からずっと言われていたのが、「日本語教育を何のためにやるのか」ということだったんです。AOTSでは、企業の研修生を対象に研修をしているんですが、「みんな英語ができるんだから、短期の研修だったら英語で直接やればいいじゃないかと、あるいは通訳を入れてやればいいじゃないか」と言われるわけです。どうして日本語が企業の研修生に必要なのかをずっと考えなきゃいけなかったし、やっていかなきゃいけなかった。そのものの見方とか考え方っていうのがすごく僕自身を大きく変えたと思うんですね。日々の授業をどうするかとかそういうことではなくて、もう一段上から日本語教育のことを考える機会が多かった

瀬尾ゆ それが今の委員の依頼とかにつながった。

神吉 そうですね。役所の人や他の分野の人たちが「教室の話じゃなくて日本語教育全体の話を聞きたい」って言ったときに、それについて語れる人がまだまだ日本語教育の業界には多くないみたいで。

瀬尾ゆ AOTSに入る前は、そこの仕事がどんな仕事かご存じだったんですか。

神吉 留学生の就職支援事業だっていうことだけは聞いていたので、「何するんですか」って言ったら、「それを決めるのがおまえの仕事だって」言われて。実際には教材を開発したりとか、カリキュラム開発したりっていうこともあったし、それを展開していって、ある意味のコンサルみたいな仕事ですね。各大学から案件がやってくるんですけど、それを見に行って、こうしたほうがいいんじゃないですかっていうようなことを。それが2007年からだったんですけど、当時留学生の就職支援っていうものがまったくこの日本にはノウハウがなかった。ほとんど初めて。

瀬尾ゆ 2007年。10年前、全然なかったんですね。

神吉 今って当たり前に結構いろいろ出てきてますけど、留学生政策が切り替わったのが2004年、2005年ぐらい。それまでは「留学生は卒業後は帰国してください」が基本の政策だったんですが、それが「日本にいてください」ってなったんですね。で、自分たちにはノウハウもないし。でも、やっていって、それがすごく面白かったなと。

瀬尾ゆ 面白いなって思われたのは、さっきおっしゃったように、一回り大きいところから日本語教育が見られるっていうのが面白さだったんですか。

神吉 そうですね。あと、やっぱり誰もやったことがない、誰に聞いても知らない、そんなのやったことないからっていう。だから、アジア人財っていう就職支援事業と、翌年に始まったEPAの看護、介護の受け入れ、それもどこにもノウハウがなくて。今もう10年経っていろいろと出てきましたけど、そういう初めてのものに関わらざるを得なかったというのはあるけど、そこで作っていくっていうのはすごく面白かったし、僕自身が変わっていった。

そして、上司の春原さんが日々横にいて一緒に仕事するわけですよね。そうすると、彼の考え方とかものの見方とか、もっと言うと語り方とか、それもすごく僕に影響を与えてると思います。だから、ものを大局的に見られるようになったとか、本質をいつも考えなきゃいけないって思ったのは、やっぱり春原さんの影響もすごく大きいですね。

瀬尾ゆ そこでいい上司の方とめぐり合ってっていう。

神吉 はい。そして、大学院の指導教員だった西口さんの影響もありますね。その2人の影響はものすごく大きい。

瀬尾ま 西口先生の影響は、どんな影響ですか。

神吉 西口さんの影響は、学問の分野ですけれども、人文科学をやる人は基本的な素養として哲学をやらなければならないということを彼は常々言っていて、だから応用言語学っていうのは応用なんだと。ベースにあるものをきちんと踏まえないと議論はできない。そういうふうに考えていかなきゃいけないっていうのは、すごく僕に影響を与えたし、もう一つ、学際的な視点も持っていて、そのこともすごく僕に影響を与えましたね。

僕は大体一つのことをじっとやるのがあまりできないタイプなので。だから、よそのものとつなげていくとかっていうのがすごく面白くて、もともとそういう僕自身の性格というか、タチもあり、そういうのでAOTSさんの仕事で新しいことやったり、よそに行って人としゃべったり、出張にばんばん行ったりみたいなのは楽しかったですね。

「何でも面白がってチャレンジする」
-神吉さんからのメッセージ

瀬尾ゆ 最後に、今から日本語教師になりたい人とか、あるいはキャリアの浅い人たちに何かメッセージはありますか。

神吉 今日は僕のお金がないときの、非常勤のときの不安みたいな話をちょっとしたけど、面白がるっていうのが一番大事かなと思うんだよね。この日本語教育の業界ってこれからいろいろと大きな変化があると思うし、それから、やっぱり業界として不安定だよね。特に国内の場合、外国人を受け入れるか受け入れないか、外国人が増えるか減るかみたいなとか、やっぱり政策に依存する部分があるので、仕事が増えたり減ったりがどうしてもよそに依存することになるわけですよね。そういう意味で不安定だと思うんで、何が起きるかわかんない。

あと、外国人相手にしてると、あの人たち文化も違うし考え方も違うし、何しだすかわかんないとかあるじゃない。授業中にニンジン食ってる学生とかいるわけだよね。授業でアメリカ人の学生が生のニンジン食ってて。最初何を持ってるのかなと思って聞いたら、学生は「キャロット」とか言って。いや、なんで食ってんのみたいな (笑) 。そういういろんな人がいて面白い。そういうのを面白がれないとこの仕事多分ツラいと思う。異文化に接触することとか、自分が想定してなかったことが起きたりとかっていうのを面白がれる人っていうのが一番いいと思うんで、これからなりたい人は何でも面白がってチャレンジするっていう、そういうメンタリティーを持ってるっていうのは重要かなと思います。

あとは、日本語教師に過剰適応しなくていいんじゃないかと思います。例えば養成講座に行くと、何か違う仕事をしてて日本語教師になりたいっていう人が結構いるんだけど、その人たちは今までの人生経験で多分いろんな貴重な経験を積んでるはずなんだけど、それがほとんど生かされずにみんな教師になっちゃう。でも、もっとみんなが持ってる経験とかスキルとかって多分生かせるところがいっぱいあると思うんだよね。そういう多様な先生がいたほうが面白いと思うし、過剰適応しないっていうか、必要な勉強はすればいいと思うんだけど、もっとみんなが持ってる経験とか外の世界のものを生かすっていう発想を忘れないでほしいなっていう。

それから、教室で教える教師だけが日本語教育の仕事じゃないから、もっと幅広く考えたらいいと思うし、新しい仕事を作っていくぐらいの気持ちがあると面白いんじゃないかなと思います。教師って人前に立って話すのがある仕事だから、しゃべれる人としゃべれない人だと、しゃべれない人にとってはかなりツラいと思う。僕みたいにペラペラずっとしゃべってる人はいいんだけど、人前に立つのは苦手だとかあるじゃない。そういう人も例えば本を作ったりとかはできると思うし、みんなそれぞれ適性があると思うので、そういう自分の良さをどんなところで生かせるのかっていうのを考えていくといいのかなっていうのを思います。

インタビューを終えて

瀬尾ま 非常勤として働いている頃に不安がなかったというお話が印象に残りました。自分がまだまだ駆け出しだった頃には、この先どうなるのかなと不安ばかりを口にしていたような記憶もあるのですが、その時を「面白がる」ことも大切なんだなと改めて思いました。

瀬尾ゆ 日本語教師に過剰適応しなくていいということばに共感しました。なんとなく持っている「こういうのが日本語教師っぽい」というイメージをときに疑ってみると、そこから自分なりの日本語教育の道が開けていくのかもしれません。

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