日本語教師の履歴書 vol.17 羽鳥愛さん


「みんなが集まる居場所を作る、感情や経験を共有する、喜怒哀楽を楽しむ」羽鳥愛さん

今回は、地域の多文化共生グループや日本語教師グループを立ち上げたり、日本語学校で専任講師として勤務されたりした後、日本語教育事業を行う会社を創業された羽鳥愛さんです。2021年1月29日にZOOMでお話をうかがいました。


《今回の「日本語教師」》羽鳥愛(はとり・あい)さん 
1978年茨城生まれ、茨城育ち。20歳から茨城県土浦市で地域日本語教室に参加する。22歳で明海大学日本語学科に進学。卒業後はタイでの日本語講師、千葉県での非常勤講師に。その後、土浦市の日本語学校で専任、教務主任を経験し、退職。現在は日本語ゆめラボ代表。多文化共生グループおみたまじん代表。早稲田大学大学院日本語教育研究科修士課程在籍。


「日本語についてなら何でも答えられる日本語のプロになりたい」
―日本語教師ボランティアから大学進学

瀬尾ま 日本語教育にはどのようなきっかけで入られたんですか。

羽鳥 私は中学生のころからディズニーランドで働くのが夢で、高校を卒業してディズニーランドのショップで働いていたんです。でも、失敗ばかりで挫折して、1年で茨城に戻りました。茨城に帰ってからは会社員として働いていたんですけれど、挫折した気持ちをずっと引きずっていたんですよね。そんな時に、20歳で初めての海外旅行でタイに行きました。バンコク・アユタヤ4日間みたいな観光旅行で、その時に初めてストリートチルドレンを見かけて、衝撃を受けたんですよ。テレビで見ている世界が本当にあるんだなと思って。それで、帰ってきた翌週とかに土浦市のユネスコ協会に問い合わせをして、日本語ボランティアを始めたのが日本語教育に関わるようになったきっかけですね。

瀬尾ま どうしてストリートチルドレンから、日本語教育だったんでしょうか。

羽鳥 私は英語もできないし、特別な資格は何も持っていなかったので、外国人のために自分に何ができるんだろうかと考えた時に、日本語だったらすぐに教えられるかなって当時の私は短絡的に思ったんですよ。それで、ユネスコ協会に問い合わせをして授業見学に行ったら、「ひらがなからの学習者だから、すぐ教えて」みたいな感じで、見学した日にその場で教えさせられました。そしたら、すごく楽しくて(笑)。それで日本語教育にハマりましたね。

瀬尾ゆ 何がそんなに楽しかったんですかね。

羽鳥 実はそれまでは教えるということには全然興味がなかったんですよ。でも、自分が知っていることを相手に伝えることがおもしろかったのかなと思います。そして、その時に初めて外国人と接したので、自分の今までの世界では接したことがなかった人と交流することができたのもおもしろかったんだと思います。

日本語ボランティアをしていた20歳のころ

瀬尾ま 働きながら日本語教室でボランティアをされていたんですか。

羽鳥 そうです。働きながらボランティアを始めました。実は私、その前から会社員をやりながら、放送大学に通っていたんです。地元で会社員になったんですが、やっぱり大卒と高卒だと扱いが違うなと思って、日本語教育とか関係なく単に学位がほしくて通っていたんです。その時に、当時明海大学にいらっしゃった水谷信子先生が放送大学で日本語教育の講義を担当されていて、水谷先生から学びたいなと思って、明海大学に進学することにしました。そこは社会人向けの夜間プログラムだったので、昼間働いて、夜は大学に通って、そして1週間に1回は日本語ボランティアというような生活をしていました。

瀬尾ゆ 明海大学に進まれたのは、日本語教師になろうという意識が強くなっていたからですか。

羽鳥 はい、ボランティアを始めて1年ぐらいだったんですが、すごく日本語教師になりたいなと思っていましたね。

瀬尾ゆ どうしてそんなに日本語教師になりたかったんですか。ボランティアでは満たされない感じだったんですか。

羽鳥 ボランティアでも満たされてはいたんですけれども、茨城県の日本語教育アドバイザーによるボランティア養成講座に参加した時に先生がすごく厳しい方で、模擬授業で先生のご意向に沿わないと「もうやめて」と中止させられるような感じだったんですよ。でも、そういう厳しさにその時の私はハマった感じがありました。日本語母語話者として日本語を使いこなせてはいるけど、それを説明することができない、そういうおもしろさにハマった気がします。そして、日本語についてなら何でも答えられる日本語のプロになりたいという気持ちがあったと思います。

瀬尾ま 大学に進まれてどうでしたか。

羽鳥 小中高では全然勉強に興味がなかったんですが、日本語教育だけじゃなくて、天文学とかの教養科目も含めて、初めて自分から勉強したいって思うようになりました。大学の授業は夜9時に終わるんですけど、茨城の自宅に着くのが深夜12時ぐらい。そして、翌日5時半に家を出て東京の臨海部にある職場に行くみたいな生活で、本当に大変でした。

瀬尾ま それだけ忙しかったら、単位をとるための勉強にもなりそうですけれども、そんなことはなかったんですか。

羽鳥 そうではなかったですね。すごく真面目に勉強していました。そして、大学の活動にも積極的に参加していました。例えば、留学生会の役員をして、いろいろな留学生のお手伝いをしたり、2年生から4年生の夏休みは毎年実習に行ったりしていました。韓国の同徳大学、台湾の東呉大学、韓国の建国大学、国内では千駄ヶ谷日本語教育研究所で本当にいい経験をさせてもらいました。

瀬尾ゆ そのモチベーションはどこから来ていたんですか。

羽鳥 やっぱり社会人だったからだと思いますね。学べるものは学んでおかないと、という意識は他の学生よりも強かったです。特に、実習っていうのは大学を卒業したらもうできないということをよくわかっていたので。

「日本語教師という仕事が自分には合っていないのかな」
―タイで日本語教師、帰国後は地域のボランティアに

瀬尾ま 大学を卒業されて、日本語教師になったんですか。

羽鳥 大学で日本語教育を勉強したものの、日本語教師という仕事が自分には合っていないのかなとも当時は思っていました。4年生の時に大学に紹介してもらって、茨城の日本語学校で非常勤講師をしていたんですが、ボランティアとは違って大変だなと思いました。ボランティアの時はほぼ学習者とマンツーマンだったんですけど、日本語学校だと20人の学習者に向かって教えなければいけないんです。自分は大人数の学生をうまく惹きつけられなくて、教えるのが下手だなと思いました。それに、当時は経験がないと、なかなか日本語学校の専任講師になれなかったので、親に経済的な援助をしてもらいながら非常勤として日本国内の日本語学校で働くか、そもそも日本語教師になること自体をやめるかを悩んでいました。それで、最後に思い出作りじゃないですけれども、自分が日本語教育の道を志したタイで働いてみて、そこでダメだったらあきらめようと思って、大学を卒業した26歳の時に、1年間タイの田舎の私立高校へ日本語を教えに行きました。

タイの私立高校で

瀬尾ゆ 実際にタイに行ってみてどうでしたか。

羽鳥 教えるのは日本語学校よりも楽しかったですね。私が担当していたのはバイクや車を修理するような工業コースに通う生徒で、日本語が使えるようになることよりも、週に1回日本語を使って楽しもうみたいな感じだったので、とにかく楽しかったです。当時は「一休さん」が現地で大人気だったようで、何回も「一休さん」の歌を歌わされました(笑)。でも、毎日が楽しくて、タイは満喫できたように感じますが、その時は無駄な1年だったって思っていました。

瀬尾ゆ 無駄な1年というのは?

羽鳥 日本語教師の専門的な何かが増えたわけでもないですし、教え方がうまくなったようにも感じられなかったので、ただのスタディーツアーの延長のようで、自分にプラスになることがなかったように感じていました。日本語教師としての力が上がったという実感はまったくなかったです。

瀬尾ま じゃ、タイから帰国されてからはどうしたんですか。

羽鳥 日本語教師の思い出ができたからいいやって感じで、プラプラしてました(笑)。そしたら、親がすごく怒って「あんた、タイへ行って日本語教師をやるって言ってたのに、1年で帰ってきて。もううちから出ていきなさい!」って言われて……。それで、茨城では日本語教師の仕事もないし、自分が日本語教師には向いていないと思っていたので、まったく違う仕事で、病院で働きながら、今度は地元の茨城県小美玉市で日本語のボランティアを始めました。

瀬尾ま ボランティアとしては日本語教育に関わりたいという気持ちがあったんですか。

羽鳥 はい、茨城県内の外国人支援には地域差があることが気になっていました。だから、自分ができることが外国人の役に立っていると感じて、ボランティアのほうが楽しいと思っていたんですよ。でも、今度はボランティアを5年ぐらいやってみて、ボランティアの教室の悪いところも見えてきたんです。一見ボランティアと学習者が密な時間を過ごしている反面、教室という閉ざされた空間で過度に密になっているなと思い始めたんです。それに、日本語教室では日本語能力試験のための勉強をしていることが多かったんですが、その学んだ日本語を使って誰かと話せているかというとそういうわけでもなかったので、日本語が使える場を作りたいと思ったんです。教室にいるボランティアだけじゃなく、一般市民と外国の人とが対等な立場で気軽に感情や経験を共有できたらいいなと考えて、同じ興味関心を持つ日本語教室の仲間と学習者10人で「多文化共生グループ おみたまじん」を立ち上げました。

瀬尾ゆ 「おみたまじん」ではどのようなことをされているんですか。

羽鳥 いろいろなイベントですね。例えば、小美玉市に「ふるさとふれあい祭り」というお祭りがあるんです。大人数で一つの大きな輪になろうというのをスローガンにしていて、市民1,000人ぐらいで盆踊りをするんですが、『おみたまじん』でグループを組んで市内の外国人といっしょに毎年70人ぐらいで参加しています。一般市民が市内に住む外国人を目にする機会がこの地域ではあまり多くないので、その場は一般市民と外国人がそれこそ一つの輪になっているように感じますね。

瀬尾ま瀬尾ゆ へー。

ふるさとふれあい祭りに参加するおみたまじん

羽鳥 あと、小美玉市で作られている食べ物を使ってバーベキューをしようという「小美玉を食べようフェスティバル」っていうのもやりました。小美玉市の名産品、例えば、豚肉、たまご、牛乳、そしてニラやレンコンなどの野菜って、実習生がほとんどの生産に関わっているんですよ。なので、小美玉市内で食べ物を作っている企業に「外国人に小美玉市で作られている食べ物を紹介するイベントをやりたいので協賛してください」と企画書を送ったら、いろんな会社が物資を提供してくださいました。

瀬尾ま それはおもしろいイベントですね。

羽鳥 ええ。普通の食べ物だと単に「楽しい」だけで終わってしまうので、小美玉市で作られているというところに重点を置いて、ブースには「これは小美玉でとれた〇〇ですよ」みたいな感じで紹介するボードを作ったりしました。そこで知り合った団子屋さんはインドネシアに出店を考えているので、味のサンプルをとりたいと言って参加してくれたり。イベントの後には実習生も雇用し始めたみたいで、今も市内の日本語教室にその団子屋さんの実習生が通っているようです。

地元の団子屋さんともつながりが

瀬尾ゆ 「おみたまじん」の活動からつながりが生まれていったんですね。

羽鳥 参加した外国人たちが生き生きとしているのも印象的でした。自分が作っているものに自信があるみたいで、すごく説明したいっていう気持ちがあったようです。「これは私の作っている野菜です」みたいな感じで日本人参加者と外国人参加者が普通に話をしていて、そこまでは私たちも考えていなかったことだったので、おもしろいなと思いましたね。

瀬尾ま 働きながらボランティアをするのは大変だと思うんですが、どのようなモチベーションでそういった活動をされているんでしょうか。

羽鳥 まあ、やろうと言い出しちゃったからやっているところもありますけれど、おもしろい、楽しいというのがあるからだと思います。仕事でも外国人といろいろと関わっていますけど、ボランティアのほうが私自身と外国人の距離が近い感じがしています。「おみたまじん」も7年目に入って、ようやくおもしろくなってきましたね。

瀬尾ま 最初はおもしろくなかったんですか。

羽鳥 「おみたまじん」を立ち上げてすぐに双子の妊娠がわかって……。子どもたちが2、3歳のころは本当につらくて、100万回ぐらい後悔しました。会に子どもたちを連れていくこと自体が迷惑をかけているような気もして……。もし「おみたまじん」を立ち上げる前に妊娠がわかっていたら、たぶん立ち上げていなかったと思います。

瀬尾ゆ イベントでは、いろいろ走り回ったりもしないといけないでしょうし。

羽鳥 子育てはいくつになっても大変ではあるんですけれども、「おみたまじん」を立ち上げて2、3年ぐらいは子どもの手はかかるし、立ち上げのメンバーがどんどんやめていったりして、苦労の時代でした。このころは私がやりたいこともすごく多かったですし、「みんなでいっしょにやろう」みたいな意識がすごく強かったからだと思うんです。みんなでいっしょにやろうと無理やり巻き込んでいた時は、自分が一生懸命いろいろと進めてみんなに仕事を振る作業をしなければならなかったんです。でも、ある時から、参加できるだけ人だけがやればいいやと思い至ったんですよね。そうすると、参加する人も「それ、おもしろそうだから手伝うよ」って言ってくれる形になって、関心がある人はやるし、忙しかったり興味がなかったりしたら参加しない。そしたら、こちらからお願いしてやってもらうことが減ったんです。ボランティアですし、誰かにやらされるのは違うかなって今は思うようになりました。そうすると、みんながちょうどいい関係になってきたような気がします。そこに辿りつくのに結構長くかかりました。

「人が集まる居場所、そういうのが私、大好きなんです」
―日本語学校の教師が集まる場を作る

瀬尾ゆ 日本語学校でも働いていたとうかがいました。

羽鳥 はい。結婚してすぐは、まだ子どもがいなかったので、病院で7年ほど働きましたけど、仕事が終わるとすごく暇で……。もともと英語は苦手だったんですが、暇だったので勉強して、英検2級まで合格したんです。でも、準1級の問題を見て、これは無理だなと思って、英語の勉強はあきらめて(笑)。でも、勉強をするという日常のルーティンができたので、日本語教育能力試験の勉強を始めたんです。そしたら合格できて、また日本語を教えてみたいなと思うようになったんです。それで、病院の仕事はやめました。

瀬尾ま お仕事をやめて日本語教師になるのは不安ではなかったですか。

羽鳥 日本語教師になる不安はなかったですかね。結婚して、好きなことができるようになったというのも大きかったかなと思います。あと、日本語教育能力試験は大学生の時に2回受けていて、2回とも不合格だったんです。それも日本語教師としての自信がない要因の一つだったのかもしれません。でも、日本語教育能力試験に合格して、自信が出てきたみたいなところはありますね。
それで、仕事を2011年の2月にやめたんですけど、3月に東日本大震災が起こって……。日本語教師の仕事を紹介してもらうことになっていたんですが、その話がなくなってしまったんですよ。その時は日本国内にいる留学生もいなくなって、本当に仕事がなくなっちゃったんですよね。でも、なんとか筑波の研究所と千葉県の日本語学校で非常勤で日本語を教える仕事を得て、そこで2年ぐらいやっていました。そこの仕事は出産してやめたんですが、子どもたちが1歳になった時に、土浦市に新しくできた日本語学校で専任講師として働きはじめました。

瀬尾ゆ お子さんを育てながら専任というのは、大変ではなかったですか。

羽鳥 うーん、大変ではありましたけど、前から専任で働いてみたいと思っていました。でも、妊娠を希望していたので非常勤だったというのもあります。ただ一方で、非常勤だと学生との距離が遠いというのも感じていました。やるならがっつりやったほうがいいかなと思って、専任のポジションに応募しました。

瀬尾ゆ 初めての専任講師のお仕事はどうでしたか。

羽鳥 大変さとおもしろさ、両面ありましたね。でも、ムダだと思っていたタイでの生活や病院勤務の経験が、日本語学校の留学生をサポートするうえですごく役立っていたんですよ。新しくできた学校で、誰も何もわからないような状況だったので。いろいろと手探りでやっていたけれど、自分の学校だけでは埒があかないなと思って、「茨城日本語教師の集い」というコミュニティを立ち上げて、茨城県内の日本語学校の先生たちが交流できる場を作りました。

瀬尾ゆ へー。そこではどんなことをされたんですか。

羽鳥 最初は、みんながどんな気持ちで日本語教師をしているのかを本当にただ知りたくて、集まってもらって、ただただ愚痴りあいました(笑)。でも、その愚痴りあいから、みんなそれぞれ関心を持っていることが違うんだなというのに気がつきました。例えば、教え方のスキルを上げたい人もいるし、生活指導の方法を学びたい人もいる。なので、そこからは年に2回ぐらい集まって、それぞれの回でテーマを変えて、グループに分かれてああだこうだ話す会をやっていますね。やっぱり自分の中とか、自分の学校の中とかだけでは解決できないことはたくさんあると思いますし、人と接することで得られるものってすごく多いと思うんですよ。今まで茨城には、私の知る限り、ボランティア同士の交流の場はありましたが、日本語学校の教師同士がつながることはなくて、東京都内に行かなければならなかったんですよ。でも、県内にもそういう場ができてよかったと思います。

瀬尾ま 羽鳥さんは、在留外国人との交流や、教師同士のつながりを大切にされているように感じるんですけれども。

羽鳥 そうですね。自分でもそう思います。ガハハと笑いあったり、弱音を吐いたり、人が集まる居場所、そういうのが私、大好きなんです

瀬尾ま それはどうしてなんでしょうか。

羽鳥 私、茨城県の石岡市の出身で、石岡の祭りって関東三大祭りの一つにもなっているんですよ。私は小さな頃から石岡の祭りが大好きで、みんなで集まって太鼓の練習をしたり神輿を担いだり、そういうのが日常にあったんです。みんなが祭りを通して近くなっていて、そういうのを日本語教育の現場でも大切にしたいなと思っていたんですよ。

ふるさとふれあい祭りに参加するおみたまじん

「社会人1年生としてがんばっています」
―日本語学校を退職し、起業する

瀬尾ゆ 今はその日本語学校では働かれてはいないんですか。

羽鳥 はい。実は、そこで6年働いて、専任講師から教務主任までなったんですけど、日本語学校のビジネスモデルが決して学習者のためにはなっていないなと感じるようになったんです。非漢字圏の留学生たちは日本での留学や就職を夢見て日本語学校に来ていたんですが、アルバイトは週に28時間までで、そのなかから学費を支払って、専門学校に行くためのお金を準備して、そして日本語能力試験のN3まで合格するっていうのが、本当に大変なんですよね。私も学習者の生活指導のために「鬼」のように毎日怒ってばっかりいて、教務主任として学費の催促や学生の強制帰国などする中で、自分が学習者のためにやりたいことは何なのかをずっと自問自答して、これじゃダメだと思っていたんです。それに、2020年4月に早稲田大学大学院に進学して日本語教育を勉強するようになって、日本語学校で留学生に「正しい日本語を効率的に教えること」だけが私の目標ではないと考えるようになりました。それで、2020年10月に日本語学校をやめて、12月に「日本語ゆめラボ」という会社を立ち上げました。

瀬尾ま それはどんな会社なんですか。

羽鳥 2020年の年末に立ち上げたんですが、「外国人を茨城のメンバーに」というモットーで進めたいと考えていて、日本語講師の派遣とオンライン日本語授業の2本立てでやろうと思っています。講師派遣の事業では、外国人の就業先に日本語教師を派遣して日本語のレッスンを行います。オンラインレッスンは、スポーツジムのスタジオプログラムみたいなものをイメージしてもらうとわかりやすいと思うんですけれども、オンライン上で月8回のレッスンを立ち上げて、受講生は毎月定額で自分の好きな授業を受けられるようにしようと思っています。

瀬尾ま どうしてそういう会社を立ち上げたんですか。

羽鳥 私が勤めていた日本語学校でも一般の人に向けてマンツーマンの授業を提供していたんですが、値段が非常に高かったんですよ。そんな値段だとよっぽど恵まれた人しか受講できないですよね。だから、「プロ」の日本語の授業をもう少し安い値段で提供できないかと思ったんです。それに、日本語学校では授業が日中に限られていて、仕事をしていて来られない外国人も多かったんですよ。

瀬尾ゆ ターゲットは生活者としての外国人なんですか。

羽鳥 はい、そうです。地域のボランティアの授業って、私も含めてですけれども、そんなにちゃんと授業の準備ができているわけではないんですよね。生活者としての外国人を教える際にも、資格やスキルのある日本語教師が仕事としてちゃんとやっていくことで、しっかりとした日本語教育が提供できるんじゃないかなと思ったんです。そして、レッスンの費用は雇用主が払ってくれるといいなと思っています。

瀬尾ま 今の需要にマッチしそうですね。

羽鳥 日本語教師の方はみんなそう言ってくれるんです。でも、実際、企業に営業に行くと、みなさん「日本語教育」に対してほとんど反応がないんですよね(笑)。キョトン? って感じなんです。自分は価値があると思って営業をしているんですけど、相手にその価値を伝えるのは本当に難しいなと思っています。これまでは、ボランティアの時にしても、日本語学校の時にしても、学習者がすでにいて、「先生」って呼ばれることに慣れていて、人間関係でもいつの間にか自分が上になっていたのかなって思いますね。「先生」という肩書がなくなって一から出直すと、本当にいろいろなことに気づきますよ。それに、営業ルールに失敗することもありますし。

瀬尾ま どんな失敗なんですか。

羽鳥 お見せする資料が足りなかったこともありますし、見積書も初めて作るので、営業先に「見にくいな」と言われてしまったり。あと、営業先で理事長と施設長が同じ苗字だったので、「ご夫婦なんですね」と言うと、「親子ですけど」って言われて。それを主人に言ったら、「営業はそんなことを言わないんだよ」って。社会人1年生としてがんばっています。

「日本語教師は喜怒哀楽が楽しめる魅力的な仕事」
―羽鳥さんからのメッセージ

瀬尾ま 最後に、今から日本語教師になりたい人やキャリアの浅い人たちに向けてメッセージをお願いいたします。

羽鳥 私が大学生の時は、日本語教師は稼げないし社会的にも認められないので、日本語教師にはなるなと先生に言われました。それが今でも同じなのは、残念だと思います。でも、日本語教師をやってみて、すごく人と近い距離で喜怒哀楽が楽しめる仕事なので、今はすごく魅力的な仕事だなと感じています。日本語教師をしていくうえで大切なのは、相手のちょっとした言動や変化に気づける細やかさ、そしてへこたれないメンタルかなと思います。自分がよかれと思ってやったことが、結果として必ずしもいいことじゃないこともあります。その時に心が折れないことも大切で、そこからいろいろと考えなおすきっかけにすることがいいかなと思いますね。あと、雑談をして、相手との共通点を探したり、相手の関心があることを会話の中で見つけていく能力も日本語教師には必要なのかもしれないですね。

インタビューを終えて

瀬尾ま ボランティア活動を運営していくなかで、「参加できるだけ人だけがやればいいやと思い至った」というお話に共感しました。団体活動では、誰もが平等に関わることを求める傾向があるようにも感じます。しかしながら、育児や親の介護などで関わりたくても関われない場合もあり、そういった人たちをどう巻き込んでいくのかを考えることも必要なのではないかと改めて思います。

瀬尾ゆ 多文化共生グループや日本語教師グループ、そして日本語教育事業を立ち上げられた羽鳥さん。必要だと思うものがなければ自分で作るという行動力を見習わなければと思いました。できることから行動に移すことで、そこに自分なりの道ができていくのではないかと思います。

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