vol.9  石川いづみさん


挑戦し、学びつづけ、広げる、極める

今回は長野県で日本語教師をされている石川いづみさんです。2019年8月23日、長野県松本市のカフェで石川さんに約2時間半にわたってインタビューさせていただきました。


《今回の「日本語教師」》石川いづみ(いしかわ・いづみ)さん 大学卒業後、会社員として3年働いた後、日本語教師養成講座420時間コースを受講し修了。1997年から日本語教師として、韓国、東京、和歌山、長野の日本語教育機関や、企業などで教える。現在、長野県内の専門学校(日本語科)非常勤講師、EPA介護福祉士候補者に対する日本語教育などに携わっているほか、フリーランスでの日本語教師研修(facebook日本語教師研修koten)松本市多文化共生プラザの相談員も行っている。また介護施設でアルバイトの介護職員としても働いている。


「言葉は凶器であると同時に、人を癒やす力を持っている」
子どもの頃から「言葉」に興味を持っていた

瀬尾ま 日本語教師になる前は何をされていたんですか。

石川 大学で国際関係を学んだんですけど、教師になろうとはまったく考えていなかったんです。当時は文系で特に資格がない女性はOLになる人が多い時代で、私もメーカーに入って3年間OLをやっていました。営業事務だったんですけど、やっぱりルーティンワークじゃないですか。毎日同じところに行って、同じ人に会って…。このままでいいのかなって思いながら勤めている時に、会社に行く道すがら「日本語教師養成講座」っていう看板がありまして。それを見て「なんだろう、これ?」と思ったのが、日本語教育との最初の出会いですね。

瀬尾ゆ そこからどうして日本語教師になろうと思われたんですか。

石川 私、子どもの時からすごく国語が好きで、星新一のまねをしてSFのショートショートを書いたり、友達と交換日記をしたり、文通の時代だったので、いろんな人と文通したりとかして、書いたり読んだりするのが大好きだったんですね。だから、「教師」っていうところは見落として、「日本語」を学ぶっていうところにすごく興味を持って、長く悩んだ末にその養成講座の説明会に行ったんですよ。

瀬尾ま 結構悩まれたんですか。

石川 そう。結構長く悩むタイプなんです。説明会に行く前には、とりあえずボランティアをしてみようかなと思って、自宅の近くにあるボランティア教室を探したんですね。そしたら、私の行ったところは現役の日本語教師や養成講座修了者がボランティアをしていて、「日本語教育の勉強をしていない人はお断り」と言われたので、ボランティアするのをあきらめて…。そこから養成講座の説明会に行って、1年ぐらい悩んで。会社員をしながらでも養成講座に通えるんですけど、本気でやるなら退路を断とうと思って、会社を辞めたんです。養成講座のお金を払ったら、貯金ゼロになっちゃったんですけど。

瀬尾ま瀬尾ゆ えー!

石川 しかも、養成講座420時間をまとめて申し込めば安いのに、私は本当に日本語教師の適性があるかわからないから、本科だけとか実践演習科だけとか、バラバラに申し込みながら始めました。会社を辞めたから、時間はあるわけですよね。でも、自分は人の2倍やんなきゃダメじゃないかなって思いがあったので、養成講座の授業も週2回だけのコースにして、ひたすら復習とかして、わざとゆっくり1年半ぐらいかけて講座を終えました。
それ以外は週3回アルバイトをしながら、以前、断られたボランティア教室に、もう一度、
アプローチして、OKをもらい、日本語を教えていました。

瀬尾ま 「日本語」に興味があったけれど「教師」は見落としていたというお話だったんですが、「日本語『教師』」になることは大丈夫だったんですか。

石川 養成講座って日本語が勉強できて、楽しいじゃないですか。ただ、本科を受講して、実践演習科を受講して、最後に教育実習が近づいてきたときに、「どうしよう、私、教えなきゃいけないんだ」って思って…。でも、実際に教案を書いてみると、すごく楽しくて。教案って、応用練習にいたるまで、文型と場面をつなげてストーリーを書くシナリオのようなものじゃないですか。そして、その教案をもとに模擬授業を実際に外国人の学習者相手にやったら、すごく楽しかったんですよ。

瀬尾ゆ ショートショートのストーリーを書いていたこととつながったんですね。

石川 あと、言葉についてとても深く考えた時期があって。私は発育不良で、中学1年生の時点で身長が128センチしかなかったんですね。子どもは残酷なので、まわりに「チビチビ」って言われ続けたんです。「チービ、帰れ!」って目の前でドアを閉められたり…。大人は大人で「まあ、かわいいわね」って言うんですけど、自分は「この『かわいい』はチビの遠回しな言い方だな」って冷静に思って、非常に傷ついていたわけですね。だから、言葉ってすごく怖いなって考えていたんです。
その経験があったので、教師になるか悩んでいた時に思ったのは、私自身も結構ズケズケ言ってしまう性格なので人を傷つけるし、自分も傷つけられたりするし、言葉って本当に怖いなと。言葉は凶器だと。凶器である言葉を教えるっていうのは、ものすごく怖いことなんじゃないかって悩んで。でも、言葉は凶器であると同時に人を癒やす力を持っている、すばらしい力を持っている、じゃあそれを教えていけばいいんじゃないかとも思ったんですよね。だから、子どもの時から自分の経験を通して言葉について考えてきたのかなって思いますね。

「教師ってスキルと人間性、どちらも大切」―学習者に気づかされる

瀬尾ま 養成講座を終えてからはどうされたんですか。

石川 自身の学んだ日本語学校の採用試験に合格して、韓国企業の日本語研修所で3か月働かないかっていうお話をいただいたので、すぐに、韓国に行くことにしたんです。でも、3か月韓国で教えて、帰国したものの、仕事がほとんどなくて。当時、日本語教育業界は「冬の時代」と呼ばれていたんです。とりあえず当たって砕けろで、募集なんかしてないんですけど、名前を聞いたことがある有名な日本語学校数校に電話をかけたんです。でも、電話の時点で「経験のない方はいりません」、「うちの養成講座を受けていない人は採っていません」って断られたんですね。
自身の学んだ日本語学校で、グループレッスンとか、少しはいただけたんですけど、せっかく日本語教師になったんだからバリバリ働きたいなと思っていました。
それで、これはちょっとまた海外に行くしかないかと思って、『月刊日本語』で調べていたら、東南アジアの仕事が多かったんです。私はシンガポールが好きで、シンガポールに行きたかったんですけど、家賃がすごく高くて、これでは生活ができないだろうなって思って…。香港もアプローチしたんですけど、「家賃がとても高いから、持ち出しになりますよ」って正直におっしゃってくださって。ボランティアじゃない、一応曲がりなりにもプロなんだっていう思いがあったので、そうすると、やっぱり韓国が一番生活できるレベルだったんですね。その時にたまたま韓国の語学学校のリクルーターの方が講演のために日本に来ていたんです。それにふらっと行って、その方の話を聞いたら、すごくきちんとした待遇だし、食べていけそうだなって思ったし、その方の印象がよかったので、講演が終わってから、「すみません、私仕事探しているんです」って積極的に話しに行ったんです。それで、「ちょうど募集もしているんで、面接しましょうか」っていうことになって、面接していただいて、1997年の7月から丸2年韓国で働きました。

韓国で教えていたころ

瀬尾ま 韓国ではいかがでしたか。

石川 同僚との関係がよくて、一緒に飲みに行ったりして楽しくて。でも、1日6時間授業のハードワークがたたって、体調を壊してしまったんです。1年がそろそろ終わって契約を更新しようかなっていうぐらいの時、ある朝起きたら、急に左上半身がしびれちゃったんです。首がまったく動かなくなってしまって。ストレートネックが原因でした。今に至るまで、毎週1回鍼灸・マッサージ治療を受け続けているんです。でも、やっぱり発症時が一番ひどくて、毎日のように治療に行っても、すぐにはよくならなかったので、主任が心配して「日本に帰ったほうがいいよ」って。でも、ここまで苦労してきて日本に帰って日本語教師をあきらめるっていうのは絶対に嫌だと思って…。もう1年韓国でやるって決めて、結局2年の契約をまっとうして日本に帰ってきました。

瀬尾ゆ 大変でしたね。

石川 帰国後は、ちょうどタイミングよく、自身の学んだ学校で就学生のコースが立ち上がっていたんですよ。そこは非常勤が担任をするので、最初から担任をさせてもらいました。それ以外にもプライベートレッスン、グループレッスン、企業レッスン、出張レッスンと、いろいろお仕事をいただきました。首のことがあるので、全部の仕事は受けられなかったんですけど、5年間就学生コースをメインに日本語教育に携わって、それが本当に私の基礎となっています。

瀬尾ま どのように基礎になったんですか。

石川 そこの教え方はすごくコミュニカティブで、自分で全部作っていくという感じで、とても勉強になったんです。宿題もその日に授業でやることをもとに全部自分で作って。毎週1回アチーブメントテストをやるんですけど、担任の場合はそれも自分で作って自分で採点して。すごく大変だったんですけど、本当に勉強になりました。ゼロレベルから超上級レベルまでの学習者がいて、3か月ごとにクラスが変わるので、それを5年間ずっとやったことが私の骨を作ってくれたなと思うんですよね。

瀬尾ゆ 日本語教師としての土台というわけですね。

石川 教師になって5年目に養成講座の教育実習もやってほしいって言われて、教師養成にも携わるようになりました。まだキャリア5年だし、30代前半で若いじゃないですか。初めて日本人を相手にするし、いろんな年齢層の方がいるってことで、緊張しました。本当に一生懸命やったんですけど、やっぱり自分がまだまだ青かったというか、余裕がなかったので、その後いつかもう一度きちんと教師養成をやりたいなってずっと心に引っかかっていました。

瀬尾ゆ 引っかかったっていうのは、どの辺が引っかかったんでしょうか。

石川 やっぱりみんな一人ひとり個性を持っているわけじゃないですか。だから、もっとその方の個性を伸ばす教案指導ができたんじゃないかなっていう思いがあって。教案を直していくと、何だか全部自分の教案に似てきてしまったんですよね。その時の私の中では最大限の力だったと思うんですけど、やっぱり経験不足と年齢と余裕のなさだったのかなって思いますね。そんな感じで留学生教育をやりながら、教育実習もやっていたんですけど、ちょうど5年でそこを辞めました。

瀬尾ま どうして辞められたんですか。

石川 私は養成講座もそこで受講して、素晴らしい基礎を作っていただいたとは思ったんですけど、やっぱり学校によっていろんな教え方もあるだろう、ちょっと他を見てみようかなっていう思いがあって、辞めました。

瀬尾ゆ そのあとは?

石川 そのあとは2か所で非常勤として働いていたんですけれど、また日本語教育に「冬の時代」が来て、全体的にガッと学習者が減ったんですよね。それで、メインで教えていた学校の全非常勤の授業が半分になって、私も授業が週2日に減ってしまったんです。このとき、ちょうど自分の中で、ものすごく疲弊してたんですね。努力しても努力しても、この業界ってなかなか収入も増えないし、報われない。首も痛くて、治療費もかさんで、毎月、貯金ゼロ。実家にお金も入れられない状態で、親からしたら「会社辞めて何やってるの?」って。それで、余裕がなくなってしまっていて、授業にもそれが出ちゃったんですよ。学生に「先生、どうして授業中笑顔がないの?」って言われて、「はっ!」って気づかされて。私、養成講座を受けているときに、先生に「あなたはその童女のような笑顔がいいから、大切にしてね」って言われていたんです。それを思い出して、私はいつから授業で笑顔がなくなったんだろうって思ったんですよ。私は日本語教育が厳しい時代に教師になったので、一日も早く全レベル全科目教えられるようになろうって決めて、きつい仕事もあえて引き受けてたんですね。だから、スキルスキルっていう方向にきてたけど、やっぱり違うよなって。教師ってスキルと人間性、どちらも大切だって気がついて。だから、今のままでは学生に対してすごく失礼だなと感じたので、1回辞めようと思ったんです。

瀬尾ま 日本語教師を辞められたんですか。

石川 ちょうどその時期に8コマに減ったので、派遣社員としてコールセンターで働きながら、あえて日本語教師の仕事は増やしませんでした。もう一つの機関も辞めてしまって。そんなに減ったのは初めてだったんですけど、その8コマを大切に教えようと思ったんです。で、その後、結局、日本語教師を2005年に辞めました。ただ、当時、自分としては学生とそんなにいい関係が築けてなかったと思うんですけど、学生のひとりが「先生教師辞めるの? 先生は教師を続けないと駄目だよ」って言ってくれたんですよね。印象に残っています。
で、辞めたんですけど、すごく不思議なことに、知り合い経由でプライベートレッスンを週4日することになって。9時から5時までコールセンターで働いた後に、日本語を教えていました。それが本当にすごく楽しくて。その学習者の方とは今でもつながってるんですけど、不思議だな、辞めようと思ったのに、プライベートレッスンの話が来てって思いました。

瀬尾ま そうなんですか。

石川 でも、それも半年ぐらいで学習者が帰国することになり、終了しました。その後、私も結婚が決まり、2007年に主人の仕事の関係で、専業主婦もいいかなという感じで和歌山に行ったんですよ。でも、主人は働き盛りで仕事が忙しいわけですよね。私は和歌山に誰も知り合いもいないし、1、2か月もすると働きたくなって、全然募集はしてなかったんですけど、和歌山の語学学校にとりあえず履歴書を送って、自分から電話をかけました。最初は「教えさせてあげたいけど、学生もクラスも少ないし、授業がないのよ」って言われたんですが、その後プライベートレッスンなどをやらせてくれて、3か月間教えました。

瀬尾ゆ 新しい土地で教えるのは違いましたか。

石川 和歌山で教えたことで、私は今まで日本じゃなくて、東京を教えてたんじゃないかなと思いました。たとえば、「電車に乗って、次の駅で降りて」と教えるときに、「ディズニーランドまでどうやって行きますか」とか、「東京タワーまでどうやって行きますか」とか、いくらでも題材がありますよね。でも、和歌山の人は電車にあまり乗らないんですよ。学生も電車に乗らない、困ったなってなった時に、「はっ!」って思ったんですよね。自分は日本事情を教えてるつもりが、東京を教えてたんじゃないのかなって。これは本当にいい経験だったと思います。
このように視点が変わったこともそうですし、あとやっぱり東京には養成講座がいくらでもあって、研修も受けられる。でも、地方はそうはいかないわけですよ。交通費を払って遠くまで行かないといけない。自分はなんて恵まれてたんだろうって気づいたわけです。地方の先生がどれだけ大変なんだっていうことに気づけたのは、大きかったです。

もう一つ、日本語とは関係ないですけど、車の免許を取ったんです。私は体格のせいもあったのかもしれないけど、運動が苦手で。機械操作も苦手、あと死ぬほど方向音痴なので、一生免許は取らないって心に決めてたんですよ。でも、和歌山で必要に迫られて、自転車で片道30分かけて教習所に行きました。若い子の中におばさん1人混ざって。オートマなのにものすごく下手で、どんなに頑張っても頑張っても下手で。和歌山の人って穏やかなので、先生はあまり厳しくなかったんですけど、そんなに厳しくない先生が怒っちゃうぐらい下手だったんですよ。それで、坂道発進を練習しているとき、うまくできなくて、「なんで習ったようにできないんだ」って先生に言われて。その日、「悔しい。頑張っても頑張ってもできない」って泣きながら帰っているときに、また気づいたんです。学生の気持ちがわかったって。学生って語学が得意で来る学生もいるけど、そうじゃない学生もいる。「もっと頑張ってね」って教師は言うけど、頑張っても頑張ってもできないことはあるんだよっていうのを、その時に身をもって感じたんですね。その後、私の運転が下手なので、担任制みたいに2人の教官が私についてくれたんですけど、「先生、私、無理だ」って言ったら、「いいから、石川さんの好きなように、自由にやりな。ゆっくりやろうよ」って言ってくれる先生で、今でも大好きなんです。こういう教師になりたいなって思ったんですよね。それがすごく大きいですね。

「専任はこれだけの仕事をやってるんだ」
―長野で専任教師になる

石川 ただ、1年も経たないうちに夫の仕事の関係で松本に来ることになりました。それが12年前です。松本に行くって決まったときから、インターネットで長野の日本語学校を調べて、非常勤の募集はなかったんですけど、いつものやり方でいきなり履歴書を送って、面接してもらって、そこで働きました。最初は非常勤をやって、2014年から3年半専任もやりました。

瀬尾ま へー。

石川 でも、実は専任になるなんてこれっぽっちも思ってなかったですよ。

瀬尾ゆ そうなんですか。

石川 はい。学校によってシステムが違うんですけど、非常勤が担任をしている学校と、専任が担任をしている学校があるんですよ。以前勤めていたところは非常勤が担任をやってたんですけど、長野の学校は専任が担任をしていたんです。やっぱり担任時代の自分への悔いもあったんでしょうね。教えるほうにばかり目がいっちゃってたから学生との関係があまりうまく築けなかったんじゃないかと思って。それで、主任に「専任になりたいんですけど」って言ったら、主任がびっくりして(笑)。その時は専任に欠員がなかったので、「欠員が出たら何とかします」と言われて半年間待ちました。でも、結果的にその半年があったことはありがたかったんです。この半年の間に考えたんです。首もまだ悪くなる時はあるし、体力もないし、学校は高速に乗って車で1時間もかかるし、月曜から金曜までフルで働かないといけないし…って。だから、今やれることはやっておこうと思って、授業がない日はすべて丸1日使って、その学校で使ってるテキストを全部まとめなおしたんですよ。教案の骨というか、ラフ教案っていうんですかね、導入、ドリル、応用練習などをとりあえず考えておいて。実際に教えるときに練り直すために。

瀬尾ま瀬尾ゆ すごい。

石川 そしたらちょうど産休育休に入られる先生がいるからって、2014年4月から専任にしていただいて。やっぱり専任と非常勤って違うんですよね。専任の仕事を見てきたつもりなのに、全然非常勤とは違いました。進路を決めて卒業させるプレッシャーとか、出席管理とか、他にもこまごまとした仕事が多くて。これだけの仕事を専任はやってるんだって。わかっているつもりで、わかっていませんでした。

瀬尾ゆ 初めてやる仕事も増えるわけですよね。

石川 そう。あと、やっぱり地方ならではかなと思うんですが、学習者と一緒に地元のお祭りとかに参加したり。地方はみんなそうだと思うんですけど、寮もあって、本当にきめ細やかな生活指導もして。すごくいい意味で学習者との距離が近くて、卒業の時は本当に感極まる思いでした。

瀬尾ま瀬尾ゆ へー。

石川 で、昔、教育実習を担当していた時から、もう1回研修をやりたいという思いがずっとあったので、採用後研修や、フォローアップ研修など、学校の先生の研修を担当することになりました。

瀬尾ま フォローアップ研修?

石川 ええ。教えはじめて何か月か経つと行き詰ってきちゃったりするので、フォローアップ研修という形で、先生をサポートすることもありました。

瀬尾ま 以前教育実習を担当されたときに、受講生の個性を伸ばす教案指導がしたかったとおっしゃっていましたが、教師研修ではそういうことができましたか。

石川 できたかなと思います。教材が豊富で、副教材も充実している学校だったんですけれども、採用後の研修では、テキストだけを見て、自分で全部考えなさいという方針で教案を書かせるんです。それで、たとえば、考え込みすぎたり分析しすぎたりして教案を書くのが進まない人だったら、「まずは導入だけ書いてみよう」、導入ができた、「じゃ、ドリルだけやってみよう」、で、最後は、「応用練習をやってみよう」っていうように分割してやってみたり。コミュニカティブアプローチが得意で、教師経験があるけど、教案を緻密に書くというのが苦手な人だったら、一から書き方を指導するよりも、まず私が模擬授業をやるから見てって言って、導入、ドリル、応用練習を見せて、メモを取らせて。それから、自分の教案を書いてもらうというように、その人に合わせたやり方でやっていました。ある意味プライベートレッスンみたいな感じで、相手に合わせてやっていましたね。

「いろんなことを見たい、試したい」
―さまざまな日本語教育に携わるようになる

瀬尾ま 今はその日本語学校はやめられたんですか。

石川 もっと違う世界を見たいなと思って、日本語教育の勉強をしたことがある人などに対して、今はフリーランスで教えています。これは前任校の研修の経験が生かされていて、基本マンツーマンで講座をやっているんですよ。だから、相手に合わせられるんですよね。それが私もとても楽しくて。

瀬尾ま どんなことをされているんですか。

石川 日本語教育に興味のある人や日本語教師になることを目指している人、養成講座を修了したけれど実際にまだ教えていない人、現役教師でスキルアップを望んでいる人などを対象に、2時間の講座をしているんです。たとえば、1コマ50分の留学生向けの日本語の授業の文型導入から応用練習まで、間に解説をはさみながら実際にやってみせて、学生の立場を味わってもらったりとか。あとは、ロールプレイのロールカードを作成するとか。現役教師の方にはニーズに合わせて、例えば、文型分析を一緒に考える講座を行うとか。

瀬尾ゆ どういう所から来られるんですか。

石川 松本市の方もいますし、長野市から来てくださった方もいますね。

瀬尾ま こういうのって、地方でやると、人は集まるんですか。

石川 集まらないですよ。でも、集まらないとわかっててやったんです。東京などの大都市で、フリーランスで日本語教師研修をしている人がいるっていうのは、ブログとかを見て知ってたんですね。だけど、長野県では私の知るかぎりフリーランスで教師研修をやっている人はいないなと思って、やり始めたんです。

瀬尾ゆ じゃあ、どちらかというと、お金のためというよりは後進の育成のためという気持ちが強いんですか。

石川 そうですね。全然お金のためじゃないです。人が来てくれなくて、やめようと思った時期もあるんです。でも、時代が変わってきているなかで、日本語教師志望の方だけでなく、外国人と働いている他業種の方などにも日本語教師ってこんな仕事なんだっていうことを知ってもらいたくて、続けてきました。

瀬尾ま すばらしいですね。日本語を教えるのはやめてしまったんですか。

石川 いえ、やめたわけではなく、メインは日本語教師です。今は非常勤で複数の学校や企業で日本語を教えています。あと、2018年9月からは経済連携協定(EPA)で来日した介護福祉士候補者に日本語を教えています。実は、そこで働く前に、私が通っている鍼灸の先生から、「介護の日本語教えるんだったら現場を見たほうがいいよ」って言われて、5日間介護施設で就労体験をしたんです。最初は見学だけのつもりで行ったんですけど、現場は人手不足で、「はい、掃除して、これして」ってお願いされるわけです。それに、利用者さんたちからも話しかけられたりするわけですよ。5日で終わるはずだったのに、やってみたら楽しくて、もっとやりたくなっちゃったんです。おばあちゃんっ子だったこともあって、もっと関わりたくなっちゃって、「続けてもいいですか?」って聞いたら、「続けて、続けて」って。介護補助だから、掃除とか、洗濯とか、配膳とかの雑用なんですが、今も基本的に週1回行っています。

瀬尾ま へえ、今も行かれているんですね。

石川 はい。週1回8時間半。今年の7月からは介護職員初任者研修を受講し始めたので、入れる時間は短くなりましたけど、今後も続けるつもりです。

介護のアルバイト中

瀬尾ま 今後としては、介護士になるよりも、やはり日本語教師がメインなんですよね。

石川 もちろん、日本語教師です。ただ、介護施設でアルバイトをしているうちに、介護職の人たちのすごさが見えてきました。介護職って、肉体労働という側面ばかりがクローズアップされがちだけど、専門知識はもちろん、洞察力や対応能力も必要な本当に頭を使う専門職で、日本語教師と共通する部分もあって、すごく惹かれたんですよね。でも、今の私に何ができるかというと、やっぱり自分が今まで培ってきた日本語教師としての経験。それを生かして、介護の日本語教育を極めていきたいという思いがあります。なぜかというと、特定技能もスタートし、日本で働く外国人が増えていくと思いますけど、一番日本語が必要なのは介護職だと思うんです。なので、自分が介護施設で働いている経験から、介護施設と介護の現場で働く外国人就労者の橋渡しをしたいっていう気持ちがすごくありますね。

瀬尾ゆ 本当に必要な仕事ですね。その他にも何か活動されているということでしたが?

石川 あとは、NPO法人中信多文化共生ネットワークに雇用されて、NPOが松本市から委託され、運営している松本市多文化共生プラザで日本語教師として相談業務を月2回しています。

瀬尾ま どんな相談業務をされているんですか。

石川 松本には外国の方がたくさんいらっしゃるので、日本語で書かれたいろいろな通知が読めない方のサポートとか、日本語学習のアドバイスとかをしています。あとは、日本語教師になりたいっていう方に日本語教師になる入口を紹介するというのもあります。多文化共生プラザには他にも行政書士とか、外国人の深刻な相談に乗り、サポートする方など、いろいろな方が携わっているんですよ。

NPO法人の一員として「お仕事マルシェ信州」に参加

瀬尾ま すばらしいですね。こうやってみると、石川さんは日本語を教える以外の仕事も今はたくさんされているんですね。

石川 そうですね。私は今年50歳になるんですけど、本当に日本語教師という仕事を愛していて、「まだ3年目、まだ5年目」って思っているうちに、とっくに折り返し地点を過ぎていたんです。あと何年この仕事ができるかわからないですけど、終わりが来るまでに、やりたいことを全部やりたいなと思ってやってみたら、今のこの働き方になりました。
あとは、本当に日本語が必要な人に日本語を教えたいと思っていて、今はそういう観点で仕事を選んでいますね。たまたま関わることになった介護の日本語教育に特に魅かれていて、もっともっと勉強して極めたいなと思います。

瀬尾ゆ そういうふうに、留学生以外の人にも日本語を教えたいなと思うようになったのはいつぐらいなんですか。

石川 日本語教師の一般的なパターンって、日本語学校で留学生教育に携わるのが最初じゃないですか。でも、私の場合、最初に海外に行って、留学生教育をするまでちょっと間がありました。もちろん韓国から戻って留学生教育に関わって、いろんなことを学べましたから、やっぱりそれは私の骨になっていると思うし、これから日本語教師になる人も、ぜひ留学生教育には携わってほしいなとは思います。ただ、今これだけ日本語教育が多様化しているなかで、それが絶対だとは言えないなとも思うんですよ。それぞれの人が自分の適性を生かしつつ、日本語教師をやるのもいいんじゃないかなと思うんですよね。私の場合は、せっかく日本語教師になったんだから、とにかくいろんなことを見たい、試したいっていうのが、結局今につながっているのかもしれないですね。

「教師は『学び続ける人』」
―石川さんからのメッセージ

瀬尾ま 最後に、今から日本語教師になりたい人やキャリアの浅い人たちに向けてメッセージをお願いいたします。

石川 教師って「教える人」って書きますよね。だから、私は「教えなきゃいけない」って思って日本語教師のキャリアをスタートしました。でも、教師をしていくなかで、「教える人」じゃなくて、「学び続ける人」だなっていうことに気づいたんです。教えるためには、授業準備をしっかりしなければならないし、授業中は学生の表情や言葉から学ぶことも多いですし…。だから、教師は教える人だって肩肘張る必要はなくて、学び続ける人なんじゃないのかなって思います。そして、そこにまた魅力があるんじゃないかなと思ったんですね。
それで、学び続ける人であるためにはどうすればいいかっていうと、やっぱり授業中に常に客観的な視点を持つことが大事なんだと思います。私、授業中に必ず教室にもう1人の自分を置いてるんですよ。そして、もう1人の自分に授業のダメ出しをさせるようにしています。教師って、教室では王様で、非常に強い存在であると思うんですね。なので、自分の教師としての強さをしっかり認識しないと、勘違いして学習者の姿が見えなくなってしまうことがあるわけですよ。なので、学び続けるためには教師としてのスキルだけではなく、人間性を磨き続ける努力をすることも大切ですね。

二つ目は、苦手なことにチャレンジしたほうがいいと思います。日本語教師をやっている人は、国語や語学が得意だから教えていることが多いと思うんですよ。でも、学習者はいろいろな理由で日本に来ていて、必ずしも語学が得意だから日本語を勉強しているわけじゃない。そういう学習者の気持ちを理解するために、自分が苦手なことをしてみればいいと思うんですよ。私も苦手なことがいっぱいあって。例えば、30代後半で教習所に通い、怒られて、帰り道で悔しくて泣いちゃったりとか。介護職員初任者研修でも、私は器用なほうではないので、実技も苦戦しながらやっているんですよ。でも、自分が頑張ってもなかなか上手にならないなっていうことをしてみたほうがいいんじゃないかなって思います。

最後に、やっぱり今は時代が大きく変わってきているので、多様性を意識した柔軟な教師になったほうがいいと思います。外国につながる児童・生徒に特化するとか、技能実習生などに特化するとか、留学生教育に特化するっていうのもいいとは思うんですけれども、今の時代はいろんな学習者に教えられる教師が求められているわけで…。今、世間から日本語教師が注目されていますが、まだまだ日本語教師が何なのか理解されていないところもあると思います。今が日本語教師の踏ん張りどころだと思います。ですから、どんどん新しいことにチャレンジして、失敗から学んでいくと、それがすべて糧になって柔軟な教師になれるんじゃないかなって思います。

インタビューを終えて

瀬尾ま 教師とは、「学び続ける人」。子どもの時にからかわれた経験…、学習者からの一言…、教習所での経験…、介護施設でのアルバイト…、石川さんのお話を伺いながら、日常の何気ない生活も「学び」になるのだなと感じました。そして、それを活力にして、新たなことに挑戦し続ける石川さん、素敵です!

瀬尾ゆ 「スキルと人間性、どちらも大切」に共感しました。私は、石川さんがお話ししてくださった「人間性」は、学習者と人として向き合うということだと解釈しました。また、「スキルと人間性」を磨き続ける裏で経験されてきた、日本語教育の「冬の時代」や努力がなかなか報われないというご苦労は、日本語教育の状況をまさに物語っていると感じました。

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