vol.6  李暁燕さん


自分の可能性をひろげ、自分にしかできないことを見つける、そして楽しむ

今回は大学で教員をされている李暁燕さんです。2019年3月20日、オンラインで九州大学の研究室にいらっしゃる李さんにインタビューさせていただきました。


《今回の「日本語教師」》李暁燕(り・ぎょうえん)さん  九州大学共創学部 准教授。中国で日本語を学び、日本語言語文化の修士号を取得後、中国大連外国語大学で日本語教師に。来日した後、私大で非常勤講師をしながら文理融合の博士号(知識科学)を取得し、2013年より九州大学に赴任。2018年より現職。最近の興味関心は、第二言語習得における暗黙知の共有、平和につながる言語教育、チームベースの学際的な教育研究等。主著に『「多文化グループワーク」による言語と文化の創造学習: 知識科学の視点から見るアクティブ・ラーニング (日本語教育学の新潮流 20)』(単著)、『流行日本語最前線』(共編著)等。博報財団第10回「児童教育実践についての研究助成」優秀賞受賞。


「博士課程に行かないと気が済まないな」
―中国での仕事をやめ、日本に

瀬尾ま 中国での大学時代に日本語を勉強し始めたそうですが、どうして日本語を専攻しようと思われたんでしょうか。

 高校まで英語を習っていてわりと成績がよかったので、英語の先生に「大学で外国語関係に進むなら、英語を勉強したらいい」と言われていたんですよ。でも、英語はある程度読み書きができるようになっていたので、もう一つ違う言語を勉強したいなと思ったんです。私が子どもだった頃は、日中関係はハネムーン期のようで、中国からはパンダが日本に送られて、日本からは映画やアニメが次から次へと中国に入ってきていたんですよ。だから、日本に対していいイメージを持っていて、自然な感じで日本語を選んでいましたね。

瀬尾ゆ 日本語の勉強はいかがでしたか。

 やっぱり必死に努力しました。特に私の周りは全員外国語が専門だったので、朝早く起きて本を朗読したり、会話の練習をしたりするのは当たり前のようになっていて。私が大学にいた1990年代はまだインターネットがない時代で、めったに日本人に会えないわけですよ。日本人っていうと、日本から来た先生ぐらいですよね。だから、高学年になって日本企業でアルバイトを始めると、周りの学生にすごく羨ましがられました。「生」の日本語の環境に入れるっていうのは、すごく有難いことでしたから。

瀬尾ま瀬尾ゆ へー。

 その時はまだ日本語の先生になろうとは思っていなかったんです。でも、インターンシップで2週間ぐらい企業で働いて、そこで何もできなくて、つらかったんです。社員の方は「それぐらいの仕事はすぐできるようになるよ」って言ってくださったんですけれども、「でも、毎日同じようなことを繰り返すだけだから、それもまたつらいですよ」みたいなことも言われて……。それで、就職するか大学院に進むかで非常に迷ったんですけど、修士課程に進学しようと決心して、受験勉強を始めたんです。当時、中国の修士課程への入学は非常に厳しかったので。

瀬尾ゆ そうなんですか。

 そう。でも、修士課程に入れた人は就職事情が非常によくて、ほぼ全員大学に就職できていたと思います。

瀬尾ま じゃ、「修士課程に行く=大学の教員になる」っていう感じだったんですか。

 そうですね。修士課程のときは2000年代に入ってたんですけど、私のいた大連ではちょうど日本語ブームがあって、日本語の修士課程に入った学生達はほぼ全員どこかの日本語学校で日本語のクラスを頼まれていました。私も修士課程が終わるときに教員の選抜を受けて、受かってそのまま教員になりました。

瀬尾ゆ 最初教えたときは、いかがでしたか。

 情熱いっぱいだったと思います。ご存知かもしれないですけれど、中国の大学は学生の人数が多いんです。しかも、普通は1クラス35人なんですけれども、私が最初に担当したクラスはなぜか46人もいたんです。2か月後には全学生がひらがなを書けるようになるという目標があったんですが、人数が多いというのもあって、どうしても数人の学生ができなくて……。それで、今も学生の名前をはっきりと覚えているんですが、夜も学生を教室に呼んで、一緒に勉強した記憶が残っています。

瀬尾ゆ 本当に情熱たっぷりですね。

瀬尾ま そこではどれぐらい教えられたんですか。

 6年ぐらいですね。

瀬尾ま 結構長いですね。でも、どうしてそこをやめられて、博士課程に進まれたんですか。

 私は日本の思想文化に興味を持っていて、修士課程では日本人の甘えの心理について論文を書いたんです。だから、教育の勉強はあまりしていなくて、主に現場で経験を積んでいった感じだったんですが、そうしていると教育現場でいろんなことを感じはじめて、それをどうやって学問的に考えられるかと考えるようになったんです。

瀬尾ゆ 「いろんなことを感じはじめた」というと?

 日本の大学だと、使ってる教材から試験の評価方法まですべてそれぞれの教員が決められると思うんですけれども、中国の日本語学科だと、一つの学年で同じシラバスを使うんですよね。自分の裁量範囲でいろいろチャレンジしようとはしていたんですけれども、やっぱり難しくて。孔子も「因材施教(「習っている人の特徴に合わせて教育を施す必要がある」という意味)」と言っていますが、現代の教育制度だとちょっと無理なところがあるなと思って。でも、自分の中でもどうすればいいかという答えがなかなか出せないということに気がついて、博士課程に行こうと思うようになったんです。

瀬尾ま 日本の博士課程に進まれたのはどうしてですか。

 当時勤めていた大学には、2年間日本語を勉強して、その後日本の協定校で2年間勉強すると、両方の大学の学位がもらえるというプログラムがあったんです。そのプログラムを担当していて、その悩んでいる時に、たまたま協定校の金沢の私立大学に客員教員として1年間働きに来ていたんですよ。その時、その近くにある国立の大学院の教授とたまたま知り合って、私の悩みを相談したんです。

瀬尾ゆ そうなんですか。

 金沢でそういう話をして、仕事の関係で大連に戻ったんですけれども、上司に「博士課程に行きたいんです」って相談したら、「今の仕事はどうするの?」と言われて。そのときは既に結婚して子どもも生まれていたから、家庭のことや仕事のことを考えて、かなり悩みましたね。でも、私の指導教員になる石川の大学院の先生は、次から次へと関係する本を大連まで送ってきてくださって。それはそれで非常に心苦しくて……。

瀬尾ま 両方からのプレッシャーですね。

 1年くらい一体どうしたらいいのかと、すごく悩んでいました。

瀬尾ゆ ご家族はなんておっしゃっていたんですか。

 うちの旦那も親も、「博士に行くなら今のうちに行ったら?」と言っていました。その時、娘は3歳だったんですが、やっぱり小学校に入ると離れるのがいろいろと難しくなるから、小学校に入るまでの3年間で博士課程を終えればぎりぎり間に合うって言われて。友達にも相談をしたら、「どうしても行かないと気が済まないんなら、博士課程に行ったら?」と言われて。博士号を持っていなくても、たぶん定年までは大学教員としてずっと働けますし、それに正直まったく知らない土地に行くっていうのは結構つらいですよね。でも、やっぱり考えてみると博士課程に行かないと気が済まないなということに自分も気がついて。それで決心して、仕事をやめて日本に来ることにしました。

中国大連外国語大学で

瀬尾ま その時点では、また中国に帰って教員をやるっていう気持ちはあったんですか。

 ありました。旦那も大連で仕事をしていましたので、まさか日本で就職するとは考えてもいなかったです。

瀬尾ま ご家族は中国に置いて、一人で日本に来られたんですか。

 子どもを連れて来ました。ただ、親に在学中に2回も数か月間家事や育児の手伝いに来てもらいました。

瀬尾ゆ お子さんがいて、もしずっと自分一人で全部しないといけなかったら、博士課程はなかなか難しいですよね。

 そうですね。博士論文執筆の最後の半年ちょっとぐらいは、子どもを中国の実家と旦那に預けました。でも、それはそれでつらかったですね。今日、職場の同僚の先生と一緒にごはんを食べていて、「20代、30代に戻れるとしたら戻る?」っていう話になったんですけど、「私は絶対に戻りたくない」って答えました。当時はいろんなプレッシャーがあって、余裕がまったくなかったので。

瀬尾ま 博士論文は、どんな研究をされたんですか。

 指導教員からは「好きなことをやっていいよ」と言われて、相談をしていると、質的研究で事例研究をするなら、早稲田大学にいらっしゃった細川英雄先生のされている教育実践を分析するといいとアドバイスをされました。それで、いろんなバックグラウンドを持っている人達がいるグループワークを「多文化グループワーク」と定義して、私も細川先生の授業に参与観察という立場で参加をして、最終的には第二言語教育現場における多文化グループワークのモデルを構築しました。

瀬尾ゆ そういうことに興味がおありだったんですか。

 お話ししたように、私は大連の大学で働いていた時に、学生一人ひとりの特徴を引き出して教育ができたらいいなって考えていたんですけれども、いわゆる伝統的な教育制度では限界があるということに気がついて。でも、細川先生の教育実践では、みんながことばにして伝えあうプロセスがありますし、言葉にはなかなかできないいわゆる「暗黙知」を一緒に活動することを通じて共有するプロセスもありました。これらのプロセスを通して自分と他者の意見を統合させた、何らかの統一した意見がグループとして最終的に生まれていたんですね。ここでは、みんなが違っているからこそみんなが大事なんです。これこそが教育なんじゃないかなと思いました。

瀬尾ゆ 参与観察をされたということは、金沢から頻繁に東京に通われていたんですか。

 毎週通っていました。最初は夜行バスで行って、朝、東京に着いて、授業に昼間に参加して、また夜行バスで金沢に戻ってくるっていうことを考えていたんですが、指導教員から「それだと体が持たないし、せっかく受け入れていただいたのに、体調が悪くて研究ができないとなってはだめだ」と言われて。それで、当時は金沢まで新幹線がなかったので、中古で買った車を運転して小松空港まで行って、飛行機で東京まで行っていました。飛行機は早く予約すると、片道9,800円だったと覚えています。

瀬尾ゆ 大変ですね。ご両親が来てくださっていたとはいえ、お子さんもいらっしゃったし。

 そうですね。いろんな意味で頑張りましたね。でも本当に悩む余裕もなかったので、それがよかったのかもしれないですね。今ふりかえってみると、周りの方たちに本当によくサポートしてもらったと思います。

「日本に来たら?」
―家族と暮らしはじめ、特別研究員、助教に

瀬尾ま 博士課程の時は、アルバイトはしていたんですか。

 客員教員として金沢の私立大学で1年間働いていたじゃないですか。そこで運よく非常勤講師の仕事をいただきました。

瀬尾ま 日本語の先生ですか。

 留学生に日本語を教えて、日本人学生に中国語を教えていました。その時、中国語を教えるのは大変だと感じましたね。だって、母語として身につけたものはわかんないじゃないですか。HSK(漢語水平考試、中国語の検定試験)の問題で、学生に「なぜBが正しいんですか」って聞かれても、Bが正しいのはわかるけど、なぜ正しいのかがわからない。かえって日本語はゼロから学んできた経験もあるし、人に教えた経験もあったから、ある程度自分の中で理論化ができていて。母語を教えるのは一番大変でしたね。

瀬尾ゆ 博士課程の後は中国に戻るつもりだったとおっしゃっていましたけれども。

 うちの旦那は大連でIT企業を経営していたんですけれど、やっぱり時代の移り変わりでIT企業がいろんな意味でちょっと大変になってきて、旦那も疲れてきていたんですね。それで、「日本に来たら」と私から提案したんですよ。日本が好きだったというのもあるし、娘も日本に馴染んできていましたし。娘が3歳の時に日本に来て、3年半経っていたので、ちょうど小学校に入る頃になっていて。2011年に博士課程を修了する時に文科省のあるプロジェクトの博士研究員に応募してみたら、1年間採用されまして。それで家族と日本で生活するようになって、その直後に下の子どもが生まれたんですよ。2012年に1年間の特別研究員が終わってからは、自分の指導教員は定年で退職されて、別の先生の研究室の博士研究員として雇われました。

瀬尾ま瀬尾ゆ へー。

 私の所属していた知識科学研究科は、国立の大学院では初めて文理融合を目指したところで、知識科学という点ではつながってはいるんですが、それぞれがいろんな研究手法を用いて研究しているところだったんです。私が研究員として所属した研究室は、自分のこれまでとはまったく別分野の理系中心の研究室だったんです。だから、最初は理解できないことが多いなと悩んでいたんですが、そういう環境に置かれたことが最終的には私にとってすごくいい学びになりました。例えば、競争的資金の申請書を書くときに、私が書いた文章に同じ研究室の教授や助教、研究員のみなさんからコメントをいただいて、理系の視点を吸収しながら申請書を作り上げたんです。その結果、2013年春に日本学術振興会の外国人特別研究員に応募して採用されました。ここでの経験を通して、理系のみなさんの気持ちも少しわかったような気がしました。

瀬尾ゆ 理系の人達の?

 そうですね。例えば理系の先生の影響を受けて、eラーニングで言語を学習させようという実践的なアイディアを得たり、コーパスなどの量的調査をして、数字で何が解釈できるかというような研究の方法まで、自分の中では非常に視野が広がったと思いますね。オノマトペのeラーニングのシステム開発は、私が所属していた理系の研究室の先生と共同で行いました。本当に違う視点を持っている人達と話し合いをしたからこそ、いい研究ができたんだと思います。

瀬尾ま 九州大学には、いついらっしゃったんですか。

 2013年10月に九州大学大学院比較社会文化研究院に助教として採用されました。この時は留学生の生活支援をしたり、相談を受けたりする留学生のコーディネートが主な仕事でした。

瀬尾ま 具体的にはどんなことをされていたんですか。

 九州大学で最初に所属した大学院の7割が留学生で、そのうち最も多いのが中国からの留学生なんです。それで、母語で相談できる窓口を設けたほうがいいということで、留学生相談室という組織を作って、私ともう一人の教授の先生が担当をしていたんです。例えば、うつ病になった学生がいれば、学内の精神科医とカウンセラーの先生と連携して対応したり、学生が交通事故に遭ったら、その面倒を見たり。

瀬尾ま 授業は日本語を教えられていた?

 九州大学大学院の助教は授業をする義務はないんですけれども、私は授業を担当したいという気持ちがあって、面接のときに「できれば自分は授業をしたい」と伝えました。それで、最初は教授の先生のご厚意で、ご自身の授業のファシリテーター的な形で参加させてもらいました。九州大学では授業を自主開講できるので、赴任した翌年の2014年からは、博士論文で研究させていただいたような実践を九州大学でもやってみようと思い、自主開講をしました。

瀬尾ま 日本人学生と留学生がディスカッションをするという国際共修の授業をされていたと思うのですが、それですか?

 そうです。『知識創造のためのコミュニケーション』という授業なんですが、それを毎年開講して。それで周りの先生からも信頼を得て、九州大学の1年生ならだれでも自由に履修ができる基幹教育科目も担当させていただけるようになりました。『文学・言語学入門』という授業だったんですが、それは同じ授業名のクラスを複数の先生が担当されていて、他の先生方は全員教授で私だけが助教だったので、私には教授の先生方と競争する実力はさすがにないなと思って、私のクラスを履修してくれる学生がいなかったらどうしようと悩みました。で、言語学でまともに授業を出しても他の先生にはかなわないだろうと思って、自分にしかできないことがないかと考えていたんです。
で、私は家で子どもに多言語で絵本の読み聞かせをしていたんです。日本に住んでいるので日本語の絵本が一番多いんですが、中国語の絵本や、出張の時に買った英語の絵本もあって。それで、わかりやすいストーリーをいろんな言語で学生とも一緒に読んだらどうかなと、ふと考えついて。異なる言葉の微妙なニュアンスを肌で感じてもらおうと。それで、『星の王子さま』をいろんな言語で読むことにしました。『星の王子さま』は世界中で愛読されているので、いろんな言語のバージョンを集めやすいんですね。

瀬尾ゆ へー、面白そう。

 結局たくさんの学生が履修してくれて、一番多いときは百数十人がこの授業を取ってくれました。

「私にしかできないこと、私なりにできること」
―不安を乗り越える秘訣

瀬尾ま 今は九州大学の共創学部で准教授をされているんですが、学部再編などでこちらに異動されたんですか。

 いいえ、普通に公募が出て、それに応募して採用されました。

瀬尾ゆ 特別研究員の時と任期付きの助教の時は、不安はなかったですか。

 不安はもちろんありましたよ。任期付きの教員だとやっぱり立場が違うので、意見をどこまで言っていいのかとか考えてしまうこともありましたし。けれども、助教の5年間は研究業績も少しずつ積んでいるという実感がありましたし、確実に成長を感じていました。だから、不安は不安ですけど、絶望的になるというものではなかったですね。それに、私は性格的にはポジティブなところがあって、落ち込むことも多いんですけれども、どうにかなるんじゃないかなって考えていましたね。不安な面もあるんですけど、人生は課題がひとつ解決されても、また新たな課題が出てくるものだから、悩んでもしょうがなくて。毎日毎日、楽しくがんばることが大切ですね。

娘さんと修了式の日に

瀬尾ま 仕事と家庭の両立は、どういうふうにされていますか。

 両立できていないかもしれないですけど(笑)。ただ、友達に「あんまり自分を責めてはいけない」と言われたことがあって。やっぱり完璧主義はキャリアウーマンには禁物だと感じていまして、無理はしないことは大事かなと思います。何でも完璧にできるということは、ありえないじゃないですか。自分は仕事も家庭も必死にがんばっていますけど、フルパワーには限界があるので。あとは、家族全員に「ママはいい加減だから」、「ママは大ざっぱだから」と言ってますね。それで子どもたちにも自己責任でやってもらっていますね。私の研究テーマは学生の自主学習のようなことなので、暗黙的にそれが家庭にも応用されてるかもしれないですね(笑)

瀬尾ま ご家族も協力的なんですね。

 それは大きいと思いますね。やっぱり親ががんばってるということは子どもに伝わるようで、自分のことは自分でやるっていうのは当たり前になっていて。下の子どもは4月から小学生になるんですけれども、自分で目覚まし時計で起きて、朝から公文の宿題をやってますね。

瀬尾ま すごいですね。上のお子さんもピアノで賞をとられていましたよね。

 そうですね。私は子どもが小さいときは「ピアノ練習してね」って言ってたんですが、それが原因でよくケンカをしていました。でも、楽器は楽しい存在であるべきだと考えるようになってから、うるさく言うのはやめました。そしたら、本人も一時期はピアノを弾くのをやめていたんですが、やっぱり音楽が好きだということもあって、自ら「ママ、ピアノの先生、探して」って言ってきました。でも、忙しかったから「はい、はい」と言いながら、すぐ忘れてしまったんですね。そしたらある日、娘がiPadでピアノの先生の情報を見つけてきて、「この先生に習いたい」と言うわけですよ。先生を自分で見つけてきたし、お金を出すくらいは親としてはしないといけないなと思って。

瀬尾ま すごい自律的ですね。外国人保護者のための学校プリントの研究もされていると思うんですが、それもご自身の経験と関係あるんですか。

 そうですね。最初に子どもを日本の保育園に通わせたときに、先生に「お母さん、クーピー買ってきてください」って言われたんですよ。で、「クーピーって何ですか?」と聞くと、先生が実物を見せてくれたんです。でも、私は『クレヨンしんちゃん』を見たこともあったし、教科書でも「クレヨン」と習ったから「これ、クレヨンじゃない?」って言ったら、先生がどうにも説明しようがないという顔をして。そういう経験から興味を持つようになりましたね。共同研究者に恵まれて、みなさんと楽しく研究することができました。考えたらやっぱり、研究も仕事も育児も楽しくしないと続かないんでしょうね。

瀬尾ま 僕は香港で働いていたことがあるので、外国人として大変だったこともあったんですけれども、日本で働いていて、外国人教員として何かご苦労があったりしますか。

 ありますよ。ただ、私は「よそ者感」も好きなんです。もちろん私は九州大学にいて、自分も九州大学のメンバーだという帰属感があるんですけれども、やっぱり外国人ということは事実ですし。でも、だからこそ、私にしかできないことっていうのがあるわけで。みんなができることは私もできるということではなくて、やっぱり違う視点から物事を考えて、それを実行することが大切で、そうするためには、ある程度は「よそ者感」が必要じゃないかなと思いますね。
 私のような、日本で就職したいと考えている外国人はたくさんいると思います。でも、「自分は外国人なんだ」、「日本語母語話者じゃないんだ」と欠点として捉えてしまうと、非常につらいですよね。だから、他の人と違うからこそ何かできることがないかと、ちょっと視点を変えたらいいと思いますよ。

瀬尾ま ほんと、そうですね。

 「私の研究テーマは文法だ」とか、「私は談話分析だ」とか、非常に細かく自分の専門を定義されている方がいらっしゃると思うんですが、特に日本で就職したいと考えている外国人の研究者だと、それだけだと足りないと思うんですね。というか、それだけだと、おそらく自分がつらくなるんじゃないかなと思うんですよ。ある分野にこだわる必要はまったくなくて、いろんな経験をしてみて、AだけではなくてBもできるんじゃないのとか、Cももしかしたらやってみればできるかもしれないという風に、自分の可能性を広げていくほうが楽しいと思うんです。子どものように好奇心を持ってワクワクしながら楽しくしようよという考えで、いろんなことをやればいいのかなと思うんですよ。

瀬尾ゆ 最初から可能性をここだけってするんじゃなくて、ポジティブに自分だったらこれができるかも、あれもできるかもっていう感じで。

 そうですね。考えたら私は日本語教育だけじゃなくて、中国語を教えたり、留学生の生活支援もしたり、『星の王子さま』のクラスをしたり、いろんなことをやってきたからこそ成長したと思うんですよね。これからはどの大学でも、言語だけを教えるという立場だとつらくなるところが出てくると思うんですよ。そこまで言語にこだわる必要はなくて、言語はあくまで使うものですから、それを使ってどんどんやったらいいと思いますよ。

「人を好きになる、すべてをミックスしていくこと」
―李さんからのメッセージ

瀬尾ま 最後に、今から日本語教師になりたい人やキャリアの浅い人たちに向けてメッセージはありますか。

 2つありますね。1つは人を好きになること。人を好きになることができれば、いろんな人に仕事を頼まれるようになるし、楽しく仕事ができるようになる。それに、好きになれば、教育や研究だけではなくて自分の生活も豊かになっていくと思います。そして、2つ目は、仕事も教育も研究も家庭生活も切り離すことなく、すべてをつなげること。例えば、私の場合だと、子どもの保育園から研究のヒントがもらえたし、子どもに絵本の読み聞かせをしていて教育のアイディアも生まれたし。すべてをミックスしていくことは大事かもしれないですね。

インタビューを終えて

瀬尾ま 生き生きと仕事も家庭も研究も楽しまれている姿が印象的でした。最近はこの3つの両立に悩むことが多かったので、李さんのように「楽しくがんばれる」ようになりたいと思います。

瀬尾ゆ ポジティブで勇気をいただけるインタビューでした。視野を広くして自分にできることを考え、周りのサポートも得ながらそれを実行していったことが、李さんの今のお仕事につながっているのだなと感じました。

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